狼の系譜 佐々木マキの絵本『やっぱりおおかみ』
私にとって絵本作家佐々木マキは一匹の狼の絵として現れる。『やっぱり おおかみ』(一九七四年)の主人公は街の坂を登り切った最も高い所、つまり絵の頂点で、レールをまたいで腰に手を当てて立ちはだかる黒いシルエットで登場する。その時代の風に逆らってすっくと立つ狼の形姿は在来の絵本の枠には納まり切れない何かを持っていた。それはいつまでも心に残る一枚の絵であった。私は『やっぱり おおかみ』が佐々木マキの最初の絵本であると長い間思い込んでいたが、この文章を書こうとして調べて見ると、この絵本に先だって『変なお茶会』という不思議な絵本があることを知った。佐々木マキの最初(?)の絵本『変なお茶会』は確かに変な絵本で、これこそ絵本の枠から遥かにはみ出していて、私はこの絵本を読む子供のイメージを思い描くことができない。この絵本は一枚の招待状から始まるのだが、それはひらがなとカタカナが通常と逆の表示になっていて、外国の地名は「とらんすばーる」で日本の地名は「ヨコハマ」というふうになっている。ちなみに漢字も使われていて、ルビが振ってある。それは一九一X年九月四日に出されたものであり、受取人はMr.カメタロウ イワイである。招待状のカタカナ表記を読みやすいように通常の表記に直すと次のようになる。
本年もそろそろ美味しそうな季節がなりつつあります。時刻が十一月四日の午後六時三分を予定なんでございます。
また他の皆様にもお招待しましてから是非本年もうち揃いておいでくださるをお待ちしています。
この絵本を最初に読んだ時、私は『不思議の国のアリス』の「気ちがいお茶会」を思い出した。通常のストーリーを逸脱したナンセンスな気分が似ていると思ったのである。二つの作品の細部を符合してみると「気ちがいお茶会」の時間は五月四日の六時である。時間がつぶ(キル)されたので、何時でも六時のお茶の時間である。『変なお茶会』の招待状の時間設定は発送日から二カ月後の十一月四日六時三分ときっちり決められているのだが、この三分を「気ちがいお茶会」の三月兎の三という数字を組み合わせるとなんだかその相関性を解読できそうなある種の感じが漂い始める。
『変なお茶会』のお茶会そのものは世界中からの招待客を一堂に集める割りにはもうひとつ盛り上がりに欠けているのだが、その茶会の場所「とらんすばーる」はたぶんルーマニアのトランシルバニアだとすると、この地は吸血鬼ドラキュラの伝説の発祥地ということになる。するとこの発信人名のない招待状の送り手はドラキュラ男爵というしかけが仕組まれていることになる。そういう筋で読んでみると、この絵本のなんとなく不気味な雰囲気が解読できるのである。招待客たちは「本年もそろそろ」とある以上招待者の正体を知っていることになる。しかし作者はそんなしかけのあるような素振りは片鱗も見せず、ひたすらその視線を招待客たちの乗り物に集中してみせる。横浜という日本の最もインターナショナルな街からイワイ氏は電気自転車で出発するのだが、それにしてもこれが日本であろうか。人力車が走っているから日本なのだろうが、五色旗がたなびく町を歩くステッキを持った男もパラソルをさしたロングスカートの女も日本人風ではない。佐々木の世界はいつも非日本的風景で構成されている。彼の世界はどこかで日本とふっ切れている。ともかく世界のあちこちからトランスバールへ向けて招待客達は出発する。ゾウ、飛行器、四人乗り自転車、一人乗り自動車という実在の、あるいは実在に近い乗り物、ローラー自転車というのか訳の分からない乗り物から天馬に引かれる飛行船、瓶をくりぬいた船、ダチョウを動力に使った乗り物、空飛ぶ鹿といった荒唐無稽な非実在に至るさまざまな乗り物の見本市、一九一〇年代を基盤にして技術と魔術が交錯する乗り物の世界が紹介される。乗り物への作者の偏愛が物語を支配するかのようだ。それこそが主題ではないかと思われる乗り物のオンパレード、これは絵本の繰り返しの手法とは異質のものだ。
実はここまで書いて来て、私は彼が絵本を書く前に漫画を書いていたことを知って仰天している。『佐々木マキのナンセンス世界』という本を見付けて彼が『ガロ』出身の漫画家であることを知ったのだ。その中の『6月の隕石』という作品に、隕石を拡大鏡で覗いて見ると、砂漠のような荒涼たる風景の中を走る古いタイプの自動車が現れるが、それがこの『変なお茶会』の乗り物と似ていたりするのである。さらにそこにはローラー自転車に乗っていた、あの勇敢な縫い子のミニー嬢とそっくりの女性が現れて、魔術師によって人形に変身させられたりする。すると『変なお茶会』の登場人物たちは『6月の隕石』の宇宙人の血縁者なのであろうか。この絵本の不思議さはどうも彼の漫画の世界から来ているようだ。私は彼の漫画はまだ一冊しか入手できないので、佐々木マキは私の前に未読の曠野として残るしかないようだ。
『変なお茶会』の招待状の差出人、お茶会の主催者は最後まで現れない。お客が到着した時はすでに座席の準備は完了していた。そしてお茶は岩の間から湧出する天然ココアである。つまりこれは主人公不在の物語なのだ。招待客の一人、横浜のイワイ氏はいくつかの場面に出てきて、ストーリーを繋ぐ役割を果たすが、主人公とはいえない。あくまで招待客の一人にすぎない。そう思って再び漫画を見直してみると、イワイ氏は漫画『六月の隕石』のJ・J・ピカール氏その人ではないか。これは『J・J・ピカール氏の話の続きA』で物好きな旅行者ピカール氏が軽はずみにも何か飲んではならないものを飲んでしまって、さてどんな異変が起こるのか、その時刻が来てみないことには見当がつかない。皆が固唾を飲んで待ち受けた五時、ピカール氏は巨大なコウモリに変身して、窓から飛び出す。ピカール氏がドラキュラ男爵なのか。するとイワイ氏がドラキュラ?そのコウモリがちゃんとお茶会の開かれる「とらんすばーる」の無人の館にいるではないか。そんなふうにドラキュラのパロディとして読んでみるとまた別の物語になるのだが、この物語の招待客たちは無表情で互いに交錯することはない。それぞれが孤独の相を生きていて最後に一堂に会しはするが、天然ココアのお茶を飲んで「ブラボー」と叫んで、来年の再会を約して再び帰って行くだけである。そこには通常絵本が持っているストーリー性がない。登場人物がどんな乗り物でやって来たのか、一人ひとりが羅列的に並べられているだけである。その意味でこの絵本は子供のためのものではない。作者の意識は漫画を描く時と変わっていない。漫画の方法をそのまま絵本に持ち込んでいる。だから非常に非絵本的な絵本ができてしまったのだ。そんな横車的な漫画から絵本への越境はだから新鮮でもある。
佐々木マキが本当に絵本を自分の表現手段として絵本作家への転身をはかったのは『やっぱりおおかみ』においてである。この作品の狼には今まで絵本にはなかった時代の気分といったものが横溢して斬新であった。物語は次のような導入文ではじまる。
おおかみは もう いないと みんな おもっていますが ほんとうは いっぴきだけ いきのこっていたのです。 こどもの おおかみでした。ひとりぽっちの おおかみは なかまを さがして まいにち うろついています。
私はこの導入部に流れている滅亡した狼という貴種への哀惜の念から、この狼を即座に日本狼と断定した。日本狼の滅亡の歴史を追及した柳田国男の『狼史雑話』と同じモチーフを読み取ったからである。西洋古典絵本で常に悪役を振られている狼とは対照的に日本の民衆が語り伝えてきた狼の伝承は優しさに溢れている。日本人がどんなに狼に親愛感を抱いていたかは、例えば「一匹狼」ということばの底に流れている畏敬の念に思いを致せば一目瞭然であろう。柳田は狼の衰亡の過程で生じる「一匹狼」や「送り狼」についての幾つかの伝承を紹介しつつ、群れの解体の過程で生じる「一匹狼」や山道で迷った人間を里まで送り届ける親切な狼がやがて人間を襲う狼と化す「送り狼」両義性について分析している。人間と棲み分けて共存してきた狼が、人間の拡張主義の前に追い詰められて、その滅亡の過程で敵対せざるを得ない歴史を柳田は明らかにしているのだが、コスモポリタン佐々木マキにそのような日本回帰が起こったのか。多分私の思い過ごしであろう。
佐々木はこの狼に先だって『分類学入門』の『赤頭巾ちゃん』という漫画で狼を書いている。私はこの『赤頭巾』のパロディを読んで思い出したのはサラ・ムーンの写真による絵本『赤頭巾』である。その狼はライトをつけた自動車に乗って来る。狼は一度も姿を現わさず、最後の赤ずきんが狼に食われる場面は狼と少女のシルエットの写真で描かれているが、ストーリーはペローの原作が忠実に踏まえられて、写真というリアルな表現媒体がいかに幻想を表現し得るかということを示している。このシルエットは『やっぱり おおかみ』のシルエットを思い出させる。佐々木の『赤頭巾ちゃん』の狼も姿を現わすのは最後の場面だけのちょい出の端役にすぎなくて、主役の座はカタツムリに譲っている。ベッドで寝ているのはお婆さんではなくて、男と女で、そばに置かれているタンスの上のシビンの中でカタツムリが歌を歌い始める。「右と言われりゃ 右むいて あなたごのみの とてもしあわせ」、それに合わせて「咲いちゃ いけない もえては ならぬ」「もえりゃ 不倫の ああ 花が咲く」と男と女が歌う。この奇妙な唄を歌う男と女は家族ではあるまい。もう赤頭巾一家の家族的連帯は崩壊している。歌いながらカタツムリはベッドへ這い上がり増えて行く。開け放たれた窓の外を赤頭巾ちゃんが歩いている。やがてシビンの下のタンスの引出の中からばらばらの手足がはみ出し誰かが食われた惨劇が暗示され、窓の外を赤頭巾ちゃんが走っている。惨劇は室内で行われ、室内のベッドの上には飽食した巨大なカタツムリが惰眠を貪っており、窓の外の赤頭巾に変装した狼が歩いている。ともかくこの狼は室内の惨劇に関してはアリバイがある。この『赤頭巾ちゃん』というメルヘンのパロディ化を通して、日常化された現代の惨劇において狼は主役の座から転落した。物語的狼は解体した以上、新しい狼像が再建されねばならない。『やっぱり おおかみ』の狼は現代の寄る辺ない流浪者としてさまようほかないのである。
狼ではないが、同じ『分類学入門』の「犬が行く」の犬の影は『やっぱり おおかみ』の狼のシルエットに似ている。その影には「生存の苛酷さ」という解説が付けられていて、犬が現代においてどのように解体され、記号化されるか、この犬こそ佐々木の狼の系譜の先蹤と思われる。『やっぱり おおかみ』の導入文の右のページの狼は黒いシルエットで描かれていて、目がなく、口が大きく割れて、尾がぴんと立っている。このような形姿に狼の心意気が示されている。自分の本来所属する共同体を失った者が新しい共同体を求めて放浪する物語である。
どこかに だれか いないかな。
というセリフはそのような祈願が込められている。
しかし狼の前に現れたうさぎの街は決して狼を受け入れることはない。狼を一目見ただけでうさぎはパニックに陥る。逃げ惑ううさぎの群れに向かって狼は「け」と簡潔な決別の辞をなげる。狼は「け」としか言わない。「け」は大きな吹き出しで表記されていて、この狼の腰に手を当てた姿勢とあいまって生きる姿勢を示している。狼は一貫して同じ姿勢と同じ声を持っている。共同体から疎外された者が古い共同体にしがみつき、余所者を疎外する者の正体を一目で見抜き、それに瞬時に決別する潔さを示している。
彼は決して挫折することなく次の目標に向かって突き進む。あと山羊の街、豚の街、鹿の街、牛の街と狼は同じ失望と同じ台詞を残して立ち去り、作者は絵本の基本である繰り返しの手法で物語を展開して行く。そういう出会いと別れの繰り返しの果てに、
おれに にたこは いないんだ
という確認に至る。どのようにしても既存の共同体の自己防衛から疎外されざるをえない自己認識が現れる。かれはもう共同体の周辺をさまよいはしない。彼はもう生者を相手にしない。夜の墓場へ行き、乱舞する人魂に取り巻かれて寝るのだが、人魂もまた彼の友とはなり得ない。最後に屋上に上り、無人の気球を見付けるが、気球もまた飛び去り、狼は例の「け」とともに取り残される。
やっぱり おれは おおかみだもんな
おおかみとして いきるしかないよ
自己のよって立つ根拠、繰り返しそこへ帰って来る根所が確かめられ、孤絶者・異端者の聖痕が確認される。貴種が流離のはてに己の存在証明に辿り着く。私はこの作品に一九六〇年代後半の政治的季節の残照を見る思いがする。佐々木マキは一九四六年に神戸新長田駅の南の下町に生まれたというが、私はその経歴については全く知らない。しかしこの作品の基調に一九六〇年から七〇年代にかけて若者たちが生きた過激な全否定の精神の残照が流れていないだろうか。そう言えば「狼」を冠した過激組織もあったような気がする。それを裏付ける資料として彼が昭和四四年に書いた戦争マンガ『ヴェトナム討論』を挙げて置きたい。ヴェトナム戦争を巡る政治的討論漫画なのだが、登場人物が日本人と思われるのに、そのせりふが中国語なのだ。その時代性と国際性においてユニークな作品である。一九六〇年代に漫画で始まった時代への挑戦が一九七〇年代に至って絵本に取って替えられるのである。
最後の見開きに街の鳥瞰図が現れる。涯しなく続く街並を見下ろしながら、
そうおもうと なんだかふしぎに ゆかいな きもちに なってきました。
というエンディングにいたる。この時、狼は孤立無援ではなかったのか。どうしてこのようなまやかしの救いが現れるのか。作者が困った時、そこへ逃げ込めば何とかまとまりがつくという、あのありきたりの救いである。最後の風景と文章はあの黒いシルエットと「け」という鋭い否定の気合いを裏切っているではないか。絵本は幼い読者に夢を与えなければならないという呪縛が彼を身動きできなくする。漫画家から絵本作家に転身しようとして佐々木マキは絵本という枠組みの前に立ち止まる。漫画の自由から絵本へ飛翔しようとして子供という壁にぶつかったのである。この時、佐々木マキに絵本作家としての最初の陥穽が訪れる。この絵本の困難をいかにして突破するのかという課題が彼の前に残される。
佐々木マキは次に『くった のんだ わらった』(一九七六)というポーランドの民話・内田莉莎子再話の絵本の挿絵を書いている。ここではシルエットの狼は逞しく変身する。画面一杯にリアルに躍動する。もぐらに巣を荒らされたひばりが狼に救いを求めると、狼は「ごちそうをたらふく食わせてくれたら追っ払ってやろう」という。次に「食ったらのどがかわいた。ビールをおもいきりのませてくれたら追っ払ってやろう」という。次に「ごちそうも食ったし、ビールも飲んだ。さてそうなると、笑いたくなったぜ。おもいっきりおかしいものを見せてくれたら、こんどこそもぐらを追っ払ってやろう」という。この狼には狼特有の不遜で狡猾な血が流れていた。最後に画面一杯に抱腹絶倒する狼の姿が現れる。狼は画面に溢れて躍動する。シルエットの「け」の狼の漫画の影が消失する。
翌一九七七年には、今度は小沢正作『すてきなバスケット』の挿絵を書いた。狼の姿は『やっぱり おおかみ』の形に帰ったが、薄い着色が施されて大きな目が描かれてやや漫画風に帰る。腹ぺこ狼が魔法のバスケットを持ってピクニックに来た豚と兎に出会い、食事中を襲うが、逃げられてしまう。後に残された空のバスケットを抱いて途方に暮れているところへ狐がやって来る。二匹は偶然にバスケットの魔法の仕掛けを発見する。そして好物のトンカツと油揚を出してたらふく食う。しかし間抜けな二匹はうっかりしてこのバスケットを野原の誰も見付けられない所に魔法の仕掛けによって隠してしまい、どう探しても見付けられなくなってしまう。この狼は豚や兎以下の、狐同様の間抜けな存在に成り下がってしまう。絵もまた存在感を失ってぺらぺらな狼を表現する。狼はもう一度変貌して、魔法に翻弄される愚かものと化す。挿絵を描いているうちに佐々木マキは絵本の仕組みを身につけていく。彼は狼の絵を描きながら、むしろ魔法の魔力に捕らわれて行ったように思われる。
いやそうではない。魔法こそ佐々木マキの本領であって、狼の方が傍系なのだ。この頃描いた、狼ならぬ山羊を主人公とした魔術使ムッシュ・ムニエルの『ムッシュ・ムニエルをごしょうかいします』(一九七八)『ムッシュ・ムニエルのサーカス』(一九八一)『ムッシュ・ムニエルとおつきさま』(一九八六)の三部作にふれておきたい。これは間の抜けた魔術使ムッシュ・ムニエルの失敗譚を描いた佳篇である。これもまた漫画にその原形がある。『ムッシュ・ムニエルをごしょうかいします』は『ピクルス街異聞』、『ムッシュ・ムニエルのサーカス』は『ディン・ドン・サーカス』、『ムッシュ・ムニエルとおつきさま』は『バッド・ムーン』のそれぞれの絵本化である。漫画の絵本化というのは一体何だのか。漫画の誇張と逸脱とナンセンスが子供のために分かりやすく解説されて魔術となったのではないか。しかしあの漫画の超現実的ナンセンスは魔術には翻訳できない棘を内包していた。だからムニエルの魔術はどこかで破綻せざるをえない。その破綻を引き起こす呪文に佐々木のことばのセンスが伺われる。例えば『ムッシュ・ムニエルとおつきさま』のムニエルが月を落とす呪文「ハバナ・ムーン バナナ・ルーン アスカ・ブーン」、贋の月を出す時の呪文は「ムーン・ライト ジューン・ブライド アラビアン・ナイト」とか漫画のナンセンスが尾を引いている。この『おつきさま』には月を研究する双子の博士が現れて、ムニエルの月を横取りしてペンチで挟んだり、聴診器で診察したり、かなづちで叩いたり、顕微鏡で覗いたりして研究に没頭し、ムニエルの月を独占する。このあたりが佐々木の真骨頂で、技術と魔術がせめぎ合い、火花を散らす。魔術と技術をめぐる佐々木のドラマではいつも魔術がピエロ役を振られている。
さらに漫画を踏まえた絵本で忘れられないのは『どろぼうたちのよる』の中の「かげどろぼう」(一九八八)という作品である。中年男が自分の影を盗んだ泥棒を追い掛けて取り返した影が少女のものなのだが「ちいさな おんなのこの かげをつれてさんぽするのも、わるくないな」という話である。これは漫画と絵本のあわいの微妙な味わいのある出来栄えになっている。
ところで私は佐々木マキの狼の変貌を追いかけているのだが、彼はすっかり魔術に魅せられて狼の孤独を忘れてしまったようだ。彼が描いた最後の狼の絵本『ぶたのたね』(一九八九・一〇)は走るのが豚よりも遅くて豚を食ったことがない狼が出てくる。彼に同情した狐博士は豚の種をくれる。ここでも狐博士の魔術が物語の軸になっていて狼は間抜けな類型でしかない。鋭角的描線で描かれた『やっぱり おおかみ』はどこへ行ってしまったのか。佐々木はもうすっかり絵本作家になってしまったようだ。あの颯爽と時代に向かって立ちはだかった貴種、「け」の狼のあまりに際立った独創性故に、佐々木はもう狼を描けなくなったしまったのか。あれを超える絵本は遂に不可能なのであろうか。私が読んだ最新作『まじょのかんづめ』(一九九四・一)でも佐々木はいろいろおもしろい趣向は仕組んでいるものの、過不足ない絵本作家として納まっているように見える。
しかし『ピンクのぞうをしらないか』でも佐々木マキは健闘しているし、『いとしのロベルタ』(一九九一)では、まるで子供を忘れたように大人のように振る舞っている。これは一人の男がロベルタを探しに行く物語である。「わたしのロベルタがいなくなってしまった」「わたしのなにがいけなかったのだろう きみに気にいってもらうために できるだけのことは してきたのに」「わたしがなにかいけないことを言ったのか きみをおこらせるようなことを」と言うような繰り言を繰り返しながら、男がロベルタを求めて旅をする。ロベルタは強く可愛い女を暗示しているのだが、その女々しいセリフを裏腹に風景はネジ巻き人間とか、巨大な赤いハイヒールとか、女と歩く瓶とか、笑っている豚の貯金箱とか、奇怪な者の連続だ。台詞と絵が互いに裏切り合って意外な結末に至る。最後に犀に似たグロテスクな一角獣に追い詰められた猫が樹上で震えている絵があり、「ロベルタ!そんなところにいたのか そんなけだものにかまうんじゃない」と男がいう。ロベルタは猫だったのかと思う間もなく、最後の見返しで、一角獣を連れた男のシルエットがでてくるというどんでん返しがある。あの漫画のナンセンス感覚の蘇りを思わせて、佐々木マキは健在である。そこには漫画家の絵本作家への見事な転身による新しい絵本の創造がある。佐々木マキは今、絵本の世界で、私の未読の分野を含めて何が出てくるか目を離せない作家である。
佐々木マキ(昭21―)
初出 | 『風(ふう)』第2号 | 1994年6月 |
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