花に嵐 井伏鱒二『屋根の上のサワン』
長い彷徨のはてに人は自分の言葉に行き会うのである。自分にとって根源的な一つの言葉に。そのような人生の劇は、自己発見と呼ばれたりするが、つまりは自分の人生のテーマの発見であり、自分の宿命との遭遇に他ならない。文学においても傑作とは作家の宿命の基調音の表現であり、どんな複雑な長篇も、どんな片々たる短篇も、その底で一つの言葉が鳴りひびいているのである。文学鑑賞とは所詮作品の中からそのまぎれようもない言葉を取り出して、それが表出している作家の宿命を読み解くことではなかろうか。井伏鱒二もまた長い彷徨の後に、一つの言葉に出会うのである。彼の出世作『山椒魚』は大正八年、二十一歳でその原型を書き、大正十二年『幽閉』として発表し、昭和四年五月『山槻魚』として改作されるまでに実に十年の歳月を要したのである。<思いぞ屈する>という屈託をテーマにしたこの短篇に十年にわたってこだわり続けていたのである。そこに湛えられている時間は、井伏の生命の屈伸力の大きさを示していよう。それでは彼を捉えて放さなかった屈託という鬱屈した自意識は何に根ざしていたのか。一つは故郷との関係である。後年の『厄除詩集』(昭12)所収の「寒夜母を思う」には次のような一節がある。
母者は手紙で申さるる
お前の痩せ我慢は無駄ごとだ
小説など何の益にか相成るや
田舎に帰れよと申さるる
ここには田舎からの都会批判、実生活からの文学批判が語られている。つまり井伏は田舎と都会、実生活と文学の矛盾の中に身を置いていたのである。もう一つは昭和二年、彼が所属していた同人誌『陣痛時代』の同人が彼を除いて全員左傾してプロレタリア文学に参加して、彼にも左傾を迫った事件である。屈託の背景には少なくともこれらの矛盾があった。それでは彼はそれらの矛盾にどう対処したのか。帰郷意志を抱きながら都会生活を続け、生活者に負い目を抱きつつ文学にこだわり続け、器用に時流に乗った転換ができなかったゆえに芸術派に取り残されたのである。こうして彼は彼を引き裂く二項対立の間を優柔不断に生き抜くのである。それが確乎たる優柔不断と化し、二項対立の状況を相対化したとき、屈託は一匹の山椒魚の中に封じ込められるのである。井伏をめぐる屈託を構成する要素は何一つ変わりはしなかったのだが、長い文学的格闘のはてに、寓話的象徴的手法で形象化に成功したのである。
昭和四年五月『山椒魚』が完成すると、作者はほとんど間を置かずその十一月に同じテーマで『屋根の上のサワン』を書く。こんどは負傷した鳥を素材とする抒情詩として書く。作品はまず主人公<わたし>と傷ついた雁との出合いからはじまる。わたしが撃たれて傷ついた雁を見つけたのは<言葉に言いあらわせないほど屈託した気持>を抱いての散歩の途上であった。さっそく家に連れて帰って五燭の電燈の下で鳥の傷の手当てをしてやるのだが、わたしの親切を誤解して暴れるので、わたしは彼の足を縛り、細長い首を私の股の間にはさんで治療する。その場面の抒情詩のしくみを検討してみよう。抒情詩は本来、静的で自己完結的な性格を持っており、ある感動を核として一つの絶対的な世界を形づくるものである。日本では抒情詩は何よりも和歌として完成し、俳諧はそのパロディとして派生したものである。例えば西行の
ながむとて花にもいたく馴れぬれば
散る別れこそ悲しかりけれ
それに対する宗因の俳諧
ながむとて花にもいたし頸(くび)の骨
は短歌と俳諧の関係をよく示している。井伏の抒情の解明にこの和歌的なものと俳諧的なものとを援用すると、雁は治療が終わるまで<あの秋の夜更けに空を渡る雁の声>(和歌的)が<わたしの股の間>(俳諧的)からしきりに聞こえてくるのである。<雁の声>が<股の間>から聞こえてくるおかしみは、異質の抒情の取り合わせから生じたものである。また雁が<五燭の電燈>(俳諧的)を<夜更けの月>(和歌的)と間違えて鳴いた哀切なおかしみもまた二つの抒情の落差から生じたものである。この和歌的なものと俳諧的なものとの共存、あるいは和歌的なものを俳諧的なものでひっくり返していくところにこの作者の文体の特徴がある。井伏文学のユーモアとぺーソスの源泉もまたここにある。
傷が治ると、わたしは雁にサワンという名をつけて、翼の羽を短く切って放し飼いにする。サワンとはインドで何月かの月の名称だという。月はサワンの故郷である空への想いをかき立てるというこの作品における月の役割を考えると、命名のうまさは卓抜だ。夏はわたしとサワンの穏やかにして平安な季節であった。サワンは人懐っこく、わたしたちは連れだって散歩し、めいめいが自分の領域で気ままに過ごした。
しかし、秋が来るとわたしたちの関係は一変する。ある秋の夜更け、わたしはサワンの悲鳴に驚かされる。空を飛ぶ僚友との必死の交信なのだが、そのときの情景は次のように描写される。
窓の外の木立はまだ梢にそれぞれの雨滴をためて、もし幹に手を触れると幾百もの露が一時に降り注いだでありましょう。けれど、既によく晴れわたった月夜でありました。
雨後の澄明な風景の中、空を見上げると、
月が――夜更けになって登る月のならわしとして、赤く汚れたいびつな月が光っていました。そうして、月の左側から右手の方向にむかって、夜空に高く三羽の雁が飛んでいるところでした。
<雨後の澄明な風景>(和歌的)、<赤く汚れたいびつな月>(俳諸的)、<夜空に高く飛ぶ雁>(和歌的)、和歌的なものと俳諧的なものとの三重衝突で抒情詩は一瞬調和が狂うかに見える。狂わせたのはむろん<赤く汚れたいびつな月>である。この月は先の<五燭の電燈>のイメージを受け継いでいささかユーモラスではあるが、また一方ではサワンの中に深く隠されていた空への帰巣本能を呼び覚し、不意の狂気に近い悲鳴を誘発した不気味な月でもある。これはまた井伏好みの月であるらしく、<いびつな月><赤くただれた一箇の腥い月>(『岬の風景』大15)、<半分に欠けた月が――赤鉄鉱色の光をはなって>(『さざなみ軍記』昭5)、<大きな赤い月>(『丹下氏邸』昭6)と類似の異様な月がちょっと目を走らせただけで作品のあちこちから現われ出て、頻出しそうな気配である。さかのぼって行けば、ひょっとすると井伏鱒二の原風景に行きつくのかも知れない。それは多分井伏の、世界の秩序に投げかける暗い悪意に縁どられた諧謔の投影なのだ。ともかくその月はサワンの内部の激しい屈託と照応しつつ、<夜更けに登る月のならわしとして>という特殊なものを一般化する井伏独得の手法に導かれて、作品の空になにげなく浮んでしまうのである。かくて抒情の破綻は回避され、異和を異和として許容しつつ調和する井伏の不思議な空を、三羽の雁は高く飛び去るのである。サワンはこの雁と鳴き交していたのである。翼の羽を短く切られて飛ぶことのできないサワンは、表題の示すごとく彼が登り得る最も高い空との接点、屋根の上に登って鳴きすがっていたのである。そのサワンの姿に
遠い離れ島に漂流した老人の哲学者が、十年ぶりにようやく沖を通りすがった船を見つけたときの有様
という比喩表現によって唐突に異相の人間が現われる。漂流して十年目にはじめて沖を通る船を見つけて、思索の沈潜から身を起こして渾身の力をこめて絶叫する老哲学者の悲壮で意表をつくイメージは、今まで家畜のごとくにも穏やかにわたしに従順であったサワンの中に秘められていた屈託を鮮明に照出する。わたし以外に人間があらわれない作品に、雁のメタファー(暗喩)として人間があらわれること、その倒錯の中に、井伏の対人間、対社会への距離、孤独が暗示され、したがってその<屈託>の質もまた暗示されているだろう。ともあれ<漂流した老人の哲学者>とは井伏文学の中核的人間像であり、この作品ではじめて現われるのである。それはこの小品の井伏文学の中における位置を示していよう。先行作『山椒魚』にも老哲学者の風貌はなくはないが、<漂流>の要素が欠けており、ともかくあそこでは<屈託>は老哲学者的諦念へ収斂するのに対して、『サワン』の老哲学者は絶叫によって<屈託>を乗り超えるべく立ち上がるのである。
作品は次に抒情詩の核ともいうべき絶唱に至る。この章ではひそかなる孤独がひたすらに歌いあげられる。サワンは月の明るい夜には必ず屋根に登ってかんだかい声で空行く僚友と鳴き交す習慣を身につけた。
その声というのは、よほど注意しなければ聞くことができないほど、そんなにかすかな雁の遠音です。それは聞きようによっては、夜更けそれ自体が孤独のためにうち負かされてもらす溜息(ためいき)かとも思われ、もしそうだとすればサワンは夜更けの溜息と話をしていたわけでありましよう。
こうして<夜更けそれ自体が孤独のためにうち負かされてもらす溜息>を媒介として、わたしとサワンの孤独な心はひそかな交信の回路を探り当てたかのごとくである。ついに孤独な心と心は触れ合ったかのごとくである。
しかし、わたしがサワンの孤独をほんとうに理解するには、サワンの屈託がわたしの監禁によることを理解するには、サワンの幾夜かの悲鳴の後のさらに耳を聾(ろう)する号泣が必要であった。ついにわたしの屈託はサワンによって癒(いや)されることはない。わたしは自分の屈託を癒そうとしてサワンの屈託を生んだだけである。わたしにせめてもできることは、サワンに出発の自由を与えて、サワンの屈託を解き放ってやることだけだ。わたしは古風な作法に則り、<サワンよ、月明の空を高く楽しく飛べよ>という言葉の指輪を彼の足に結んでやろうと思う。明日訪れるはずの美しい別れのために。
抒情詩はまさにロマンの香りを放って完結するかに見えた。しかし予定調和の世界に直面すると井伏のへそは少し曲がるらしい。和歌に俳諧、花に嵐のひとひねりというやつだ。翌朝、サワンは屋根の席に一本の胸毛を残して失踪していた。かかるどんでん返しで約束された美しい別離は醜い狼狽に変じる。ここに井伏鱒二の容易ならざるしたたかさがある。それは時には意地悪くさえ見える。あの世界に対する暗い悪意が作品をよぎる。しかし、井伏は自らの世界に投じた異和を新たなる調和へと転化させる。醜い狼狽を井伏はなんとさわやかに描いてみせることか。
岸に生えている背の高い草は、その茎の先に既に穂状花序の実をつけて
<穂状花序の実>という学術的用語がなんと硬質で詩的な輝きを発散することか。和歌的なものと俳諧的なものとの葛藤のはてに、一つの純正な詩的結晶に至るのである。
穂状花序の実をつけて、わたしの肩や帽子に綿毛の種子が散りそそいだのであります。
わたしはむろん狼狽のあまり草をかきわけかきわけ探索したのであるが、それがかくも美化され、作品は抒情詩の輝きを失うことはないのである。この屈曲に富んだ、したたかな文体は、原爆の悲惨を軽やかなユーモアを湛えて描いた『黒い雨』(昭41)の文体を予見させる。対象が異常であればあるほど、あくまで平凡な日常的感覚に執し抜く井伏流文体が、リアリズムでは決して描くことのできなかった原爆の巨大な惨禍を捕捉し得たのだ。井伏が『黒い雨』を書いたとき、人々は井伏と原爆の取り合わせを奇異に思ったが、負傷した鳥への愛の中にエゴイズムを見ずにおかない自意識が彼をプロレタリア文学に行かさなかったように弱者への愛は作品の表層へ浮上して風化せず、その底部を流れ続けて『黒い雨』を生むのである。
かくて作品は結末に至る。井伏は残された一本の胸毛から惨劇を仕立てるようなリアリストではない。<恐らく…>ではじまった作品の結びの一文もまた、
恐らく彼は、彼の僚友たちの翼に抱えられて、彼の季節向きの旅行に出て行ってしまったのでありましょう。
<恐らく…でありましょう>という微妙な言いまわしで構築された仮構の空を、サワンは美しく飛翔し去るのである。
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ(『厄除詩集』)
という井伏文学の基調音が、このとき鳴りはじめたのである。サワンはいちずな出発への意志を貫きとおし、長く捉われつづけた<屈託>に別れを告げて飛び去るのである。サワンの屈託が解消したとき、その原因を構成していた私の屈託もまた消滅するのである。こうして井伏文学の<屈託>の時代は終わるのである。これが『山椒魚』に踵を接して『屋根の上のサワン』が書かれねばならなかった理由である。
翌昭和五年、井伏は帝都を追われて流浪する平家の一少年の記録『逃亡記』を書きはじめる。井伏文学の<漂流>の時代がはじまるのである。二項対立の矛盾の世界を悠久たる優柔不断の翼を拡げて井伏は漂いはじめるのである。この作品は十年にわたって書きつがれて『さざなみ軍記』(昭13)として完成する。さらに『集金旅行』(昭12)、『ジョン万次郎漂流記』(昭12)と書きついで、井伏は戦争の時代を漂流していくのである。
井伏鱒二(明31―平5)
広島県の加茂村の地主の家に生まれた。彼には農家出身だという自覚があり、それが彼を故郷につなぎ、その文学に庶民性を与えるもとになっている。その作品は淡々とした平凡な表層の底に、屈曲に富んだ詩情や微妙な人間味が隠されている。
初出 | 『貫生』第1号 | 1981年1月 |
単行本 | 『作家 その原風景 短篇小説さすらい抄』 | 1985年3月 |
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