仮象への旅 梶井基次郎『闇の絵巻』

 梶井基次郎ほど闇を追い求めた作家を私は知らない。その短い文学的生涯の大半を費して梶井は闇の物語を書いた。闇は遍在する外的条件にすぎず、どの作家も生涯かけて追求するようなものを闇の中に見いだすことができなかった。ところが梶井は闇に不思議な旅情を感じ、闇の迷路を生涯さすらい続けたのである。いったい闇の何が彼をそんなに惹きつけたのであろうか。彼は闇の中に何を見たのであろうか。

 梶井文学の美しい開幕を告げる『檸檬(れもん)』(大13)において闇はすでにその文学の根幹にどっかり腰を落している感がある。『檸檬』の主人公<私>はかつて<丸善>を何よりも愛した西欧文化の信奉者であったが、<えたいの知れない不吉な塊>という夭折への予感によって人生の表通りから隔てられて裏通りの彷徨者と化した男である。そのような主人公を設定したとき、すでに梶井文学の位相は決定されていたのである。彼がそこで発見した裏街の詩情は<見すぼらしくて美しいもの>という言葉に集約され、<様ざまの縞模様を持った花火の束>(閃光でないことに注意)<びいどろという色硝子で鯛や花を打出してあるおはじき><南京玉>といった幼児の偏愛物として取り出される。そして<あのびいどろの味程幽かな涼しい味があろうか>というようにそれらは視覚美から味覚美へとはみ出していて、諸感覚の統合美ともいうべき梶井独得の美が示現されていた。さて、この<見すぼらしくて美しいもの>が<檸檬>の美に行き会うには、夜の果物屋の美しさが発見されねばならない。

また其処の家の美しいのは夜だった。(中略)その周囲が真暗なため、店頭に点けられた幾つもの電燈が驟雨のように浴せかける絢爛は、周囲の何者にも奪われることなく、肆(ほしいまま)にも美しい眺めが照らし出されているのだ。

この闇夜に輝く見すぼらしい美しさ故に、その果物屋で私は一顆の檸橡を購うのである。

レモンエロウの絵具のチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈の詰った紡錘形の恰好も

この檸檬こそまさしく<見すぼらしくて美しいもの>の凝集した美の典型に他ならない。

 こうして<見すぼらしくて美しいもの>は幼時への回帰である<おはじき>と自然への回帰である<檸橡>を両極として現われる美意識である。梶井文学は常に二極対立のドラマツルギーを秘めているが、この作品は西欧文明からの逸脱である<見すぼらしくて美しいもの>が一方に設定されるとすれば、その対極に<丸善>によって象徴される華やかにして美しいものが描かれねばならない。かくて作品は<檸檬>対<丸善>の角逐を追って展開することになる。

 それにしても梶井文学の基調を決定した<見すぼらしくて美しいもの>への回帰現象はどうして起ったのであろうか。私は先ほどそのターニングポイントを<不吉な塊>という夭折の予感だといったが、その点を少し補足しておこう。祖母スエの老人性結核とともに梶井家に住みついた結核という死病に梶井が初期感染するのは、スエの死んだ大正二年、梶井十三歳のときまでと推定される。大正四年には次弟芳雄が脊椎カリエスで死んでいる。梶井自身も十七歳のとき、すでに結核の症状が現われている。当時不治の病といわれたこの宿痾は梶井の肉体と意識を少しずつ、だが確実に蝕んで行き、やがて彼の中に夭折の予感を作り上げる。梶井はこの宿痾の錘鉛をつけて世界の暗部に下降して行き、ついに<見すぼらしくて美しいもの>という自分の宿運に逢着するのである。

 しかし、この世界の暗部にはいったい何があったのか。実は作品『檸檬』の水面下には茫洋たる闇が広がっていたのである。梶井は『檸檬』発表のとき、そのもとになった習作『瀬山の話』の後半部を切り捨てて、前半部分のみ独立させて『檸檬』として発表したのである。『檸檬』は『瀬山の話』の広大な闇に浮かぶ氷山の一角にすぎなかった。

五官に訴えて来る刺戟がみんな寝静まってしまう夜という大きな魔がつくずく呪われてくる。

と『瀬山の話』で描かれた不眠の夜、<変な妖怪が此のあたりから跳染してまわる><精神の大禍時(おおまがとき)の幻視><逢魔が時の薄明りに出てくる妖怪>と叙述された魑魅魍魎にみちた幻視の夜、その夜を彷徨してその果てに

汚れと悔いに充たされたこの私は地の上に、あらゆる荘厳と、華麗は天上に、

と感じたとき、私は<状件的(コンディショナル)ではない絶対的(アブソリュート)な寂寥>に捉えられるのである。この『檸檬』で切り捨てられた闇は表現上のいささかの錯乱や未熟はあるにせよ、驚くべき幻視の躍動する未踏の世界であった。梶井文学の以後の課題はこの『檸橡』の背後に捨てられた広大な闇をいかに精緻な表現で掬い上げるかにかかっていた。闇は梶井の表現力の深化とともに徐々にその姿を現わして行き、やがて彼の作品を覆い尽くすであろう。

 昭和元年大晦日、梶井は高校時代からの病気とデカダンスのため延び延びになっていた学業をほぼ最終的に断念して、療養のため川端康成の滞在していた伊豆湯ケ島温泉に行く。当時新人発掘の名手といわれた川端をめざして行ったのだが、川端は彼を歓待したがその文学には冷淡であった。ここに昭和三年の春まで逗留して文学に専念する。病気のため学業を放棄した梶井にはもう文学しか残されていなかった。川端が認めようと認めまいとこの追いつめられた辺境の自然を根拠地として梶井の文学は独自の境地を切り拓きつつあった。闇の復活を告げる『冬の日』(昭2)はここで書かれた。そこには闇の入口ともいうべき夕暮の美しさが捉えられていた。

何人もの人間が或る徴候をあらわし或る経過を辿って死んで行った。それと同じ徴候がお前にもあらわれている。

『檸檬』の夭折の予感がここでは避けられぬ宿命として自覚されていた。そういう自己の宿命との遭遇が夕暮の美の発見となる。

青く澄み透った空では浮雲が次から次へ美しく燃えていった。みたされない堯(たかし)の心の燠(おき)にも、やがてその火は燃えうつった。
「こんなに美しいときが、なぜこんなに短いのだろう」

この夕暮の風景の中に彼は自分の人生の投影を見ていた。自分の残り少ない人生の時間への愛惜が風景への愛惜の中で語られていた。風景とはいつもそういうものだが、握井はひときわ見事にそれを語ってみせた。こうして彼の作品から人間の姿は消えて行き、風景が作品の中心に据わる。

 梶井の闇へのアプローチをもう一つ押えておこう。『冬の蝿』(昭3)は湯ケ島での療養生活を扱った作品である。

私は日を浴びていても、否、日を浴びるときは殊に、太陽を憎むことばかり考えていた。結局は私を生かさないであろう太陽。しかもうっとりと生の幻影で私を瞞そうとする太陽。おお、私の太陽。私はだらしのない愛情のような太陽が癪に触った。私は日の当った風景の象徴する幸福な感情を否定するものではない。その幸福は今や私を傷つける。私はそれを憎むのである。

太陽に傷ついて傷ましく敗退して行く生命の劇が虚飾を払って赤裸に取り出される。太陽光線の中に偽瞞を見てしまった男、太陽光線のもたらす幸福を憎悪する男がどうして昼の世界にとどまることができよう。梶井は昼の世界から放逐されて夜の世界へ滑り落ちる。

 以後、魂の安住の家を持たないこの永遠の旅人はもっぱら闇の世界をさすらうことになる。そして最後に自分の死期を悟った孤独な旅人は、自分の闇の中の足跡のアンソロジーを企てて『闇の絵巻』(昭5)を書く。これはかつての山間の療養地湯ケ島でいつも歩いた一本の街道の闇の散策の記録である。作品は<何も見えない闇の中でも、一本の棒さえあれば何里でも走ることができる>強盗の話に<そぞろに爽快な戦慄>を味わうところから始まる。闇の中の疾走というテーマは闇の中の自由と言い換えてもいいだろう。普通、人間は闇の中の自由を持たない。闇は<不安や苦渋や恐怖>がいっぱいの牢獄であり、その中へ一歩を踏み出すためには<絶望への情熱>がなくてはならない。梶井は元来歩行の作家であり、歩行による視点の移動が梶井文学の基本的姿勢である。梶井にとって生きるとは歩くことを意味した。ところがこの頃、病気の進行とともに歩行の持続さえ困難となっていた。少し歩くとしばらく休まねばならなかった。そういう梶井にとって疾走は破滅への冒険を意味した。その不可能への憧憬の中に多分梶井の詩心が潜んでいたが、彼は自分の歩行のリズムを守りとおすことで結局散文家としての自分を踏み外すことはなかった。

 梶井は闇の中の自由を疾走という形態ではなく、<巨大な闇と一如>になることで獲得する。闇と一如になった<深い安堵>の中で彼は何を見たのか。

あるときは岬の港町へゆく自動車に乗って、わざと薄暮の峠へ私自身を遺棄された。深い渓谷が闇のなかへ沈むのを見た。夜が更けて来るにしたがって黒い山山の屋根が古い地球の骨のように見えてきた。彼等は私がいるのも知らないで話し出した。
「おい。何時まで俺達はこんなことをしていなきゃならないんだ」

これは『檸檬』で切り捨てられた幻視の闇の再現に他ならない。ここにはもう<精神の大禍時の幻視>という大時代的な言い廻しも、<絶対的な寂寥、孤独感>という抽象的な表現もなく、<古い地球の骨>という比喩と山の会話があるばかりだが、『瀬山の話』で垣間見られた闇の不思議が永遠の相のもとに捉え直されていた。『瀬山の話』の闇への脅えがここでは闇への親和に変っていた。この闇の悠久の相にはある異界の雰囲気、どこか死後の世界を思わせるものがある。<闇と一如>は死への諦念に支えられていたのである。それゆえ、ここには一種末期の眼で見られた死後の静謐が物語られていたのである。

 これと同じ素材を扱った『冬の蝿』ではまだ末期の眼は現われず、生と死の葛藤が詳細に描き込まれていた。<私>はふとした出来心でとんでもない乗合自動車に乗ってしまい、自分の宿と次の温泉の中間地点の山の中で下車してしまう。病身の私はあからさまな死の想念に満たされて迫り来る闇を迎える。

此処でこのまま日の暮れるまで坐っているということは、何という豪著な心細さだろう。
定罰のような闇、膚を劈く酷寒。そのなかでこそ私の疲労は快く緊張し新しい戦慄を感じることが出来る。歩け。歩け。へたばるまで歩け。
私は残酷な調子で自分を鞭打った。歩け。歩け。歩き殺してしまえ。

夭折という避けられない運命へじりじり追いつめられて行くとき、生命は時として反逆の意志表示をする。破滅への情熱の姿をとった生命の噴火、梶井をいくども襲う自壊への衝動、彼はしかし決してそれを狂態としてではなく、生命のすざましく美しいドラマとして描いてみせた。ここには自虐というような自意識の空転はない。同じ死へ雪崩る生命の危機を描いてもそこで太宰と違っていた。梶井の場合、自分と風景のつながりを見失うことはなかった。その生命の危険なバランスの破綻は、その向こうに<豪著な心細さ>という異様に美しい風景を垣間見させた。『闇の絵巻』の<闇と一如>には、『冬の蝿』のこの生命のドラマが一つ踏み超えられていた。

 もう一つ生命の危機的様相を示す例を一つ引用してみよう。人間世界から隔てられた自然の上に自分の文学の舞台を設定した梶井文学の中に、人間がどのような形で姿を現わすかを次の一節は示している。

ある夜のこと、私は私の前を私と同じように提燈なしで歩いてゆく一人の男があるのに気がついた。それは突然その家の前の明るみの中へ姿を現わしたのだった。男は明るみを背にしてだんだん闇のなかへはいって行ってしまった。私はそれを一種異様な感動を持って眺めていた。それは、あらわに言って見れば、「自分も暫らくすればあの男のように闇のなかへ消えてゆくのだ。誰かがここに立って見ていればやはりあんな風に消えてゆくのであろう」という感動なのであったが、消えてゆく男の姿はそんなにも感情的であった。

この男は人間というよりほとんど風景である。この男は作者自身の影であり、彼はその男の中に自分白身の運命を見たのである。闇は死のメタファーであることは言うまでもあるまい。死の闇に消えて行く自分自身の姿を<一種異様な感動><そんなにも感情的>という抑制された感動の表現の中に死を受け入れた諦念が現われている。同じ闇に消えて行く男を描いても『蒼穹』(昭2)はもっと違った感動が高鳴っていた。

その闇のなかへ同じような絶望的な順序で消えてゆく私自身を想像し、言い知れぬ恐怖と情熱を覚えたのである。
その記憶が私の心をかすめたとき、突然私は悟った。雲が湧き立っては消えてゆく空のなかにあったものは、見えない山のようなものでもなく、不思議な岬のようなものでもなく、なんという虚無! 白日の闇が満ちているのだということを。

<絶望的な順序>といい、<言い知れぬ恐怖と情熱>という明瞭きわまりない正確さで自分の死を見てしまった人間の驚愕と恐怖が表現されていた。闇の中に消えて行く男に自分の運命を読み取ったとき、雲の生成と消滅の不可思議な現象の謎が解けたのである。空には白日の闇があったのだ。雲はそこから湧出し、そこへ消滅する存在のブラックホール、眼前の風景を仮象化する虚無の発見、梶井はもう風景というようなものを見ていたわけではない。彼が見ていたのは風景の向こう側、存在の構造とでもいうべきものである。<白日の闇>というような見るべからざるものを見てしまった自分の視力の異常に彼は驚愕していたのである。こうして同一素材を比較してみると『闇の絵巻』には『蒼穹』の生命の鋭い危機感はなく、死後の世界からこの世を見返すような、弛緩と見まがうほどの諦念が支配していた。あの、いつも<電燈の真下の電柱にぴったりと身をつけている>一匹の青蛙さえ、何かこの世ならぬ相貌を帯びていたのである。

 太陽光線の偽瞞に気づき、白日に闇を見てしまうような異様な存在透視力に見舞われた梶井は遍在する死に見張られながら、少しずつ夜の階段を下りて行き、『闇の絵巻』では<闇と一如>という死者の視線を獲得するのである。闇といっても悪魔の往む漆黒の闇や希望に輝く明澄な光源は避けられて

深い闇のなかから遠い小さな光を眺めるほど感傷的なものはないだろう。

と闇の中の微光が求められていたのである。微光の中の自然の風物こそ『檸檬』の<見すぼらしくて美しいもの>のたどりついた一つの極点であった。

竹というものは樹木のなかでも最も先に感じ易い。山のなかの所どころに簇れ立っている竹薮。彼等は闇のなかでもそのありかをほの白く光らせる。

ここでは闇の中に見捨てられた<見すぼらしいもの>の中に、ほの白く光る<美しいもの>が見出だされていた。『闇の絵巻』は微光の賛歌といったもの、闇の彼方からはるばる射して来る微光に照らし出される万象のはかない美しさがうたいあげられていた。微光の中で移ろい易い風物のたたずまいが永遠の相で捕捉されていた。

 闇は人間にとって一種異境に他ならず、文明とは闇への絶えざるたたかいによって、闇を光に変えることをめざした人間の悲願に支えられていた。文明の尺度は光度によって測られるといっても過言ではない。ところが梶井は光に背を向けて闇の奥へと歩み去り、闇の底部に到ったかのごとくである。そしてこの『闇の絵巻』ではそこから再び浮上して、闇と光の接点、微光の世界に行き着いたのである。梶井はここで微光の詩学とでもいうべきものによって、つまり微光の中で視力が弱まっただけ諸感覚が鋭敏に働く、そういう諸感覚の協和によって、闇の中に隠されていた自然の諸相を照らし出してみせたのである。闇と一如となった以上、もう闇の中には他者はいなかった。そこにあるものはすべて自分の影を刻印されていた。そのような自在な感覚によって作り出す作品を彼は「資本主義的芸術の尖端リヤリスチック・シンボリズムの刀渡り」(昭2・近藤直人宛書簡)と呼んだ。リアルに描けば描くほど、それがシンボリックになる他ない文学を作り上げたのである。梶井は志賀を敬愛し、志賀の影響下の文学であるかのごとく言われることがあるが、素朴なリアリズムを基調とする志賀文学とは何と異質な文学であることか。例えば『筧の話』(昭3)で、

私は物体が二つに見える酔っ払いのように、同じ現実から二つの表象を見なければならなかった。しかもその一方は理想の光に輝かされ、もう一方は暗黒な絶望を背負っていた。そしてそれらは私がはっきりと見ようとする途端に一つに重なって、またもとの退屈な現実に帰ってしまうのだった。

と書く男がなんでリアリストなものか。志賀のリアリズムはどこまで行っても<退屈な現実>を超えることがなかったが、梶井のリアリズムはいつも変幻するサンボリズムの光を放つのである。闇を内包していない作家は闇を外在的にしか描くことができない。梶井の自然は生と死のメタファーであることによって、存在と非在の変幻のドラマを奏でていた。梶井文学のそのような二重構造は、あの<見すぼらしくて美しいもの>という美意識の二重構造に根ざしていて、そこではいつも「見すぼらしいもの」と「美しいもの」の二つの異質の美が衝突していて、感性そのものが火花を散らすダイナミズムを内包していた。彼はその感性の独創によって時代を超えて行くのである。

 彼の生きた時代は「芸術派」と「プロレタリア派」の激突の時代であり、友人たちの左傾化の中で、彼自身も『資本論』に感動しながらもプロレタリア文学に行かなかったのはプロレタリア文学のあまりに素朴なリアリズムが彼の感性になじまなかったからである。一方、「華やかにして美しいもの」だけしか見えなかった当時のおおかたの「芸術派」にも彼は同じ理由から同じることができなかった。彼は文壇から認知されない無名性によって、闇の中の見すぼらしい自然からすばらしい幻視の花を咲かせてみせたのである。当時の「芸術派」も「プロレタリア派」もあらかた忘れ去られた中で梶井だけがひときわ現代的な光彩を放つのは彼の文学の底で機動している感性の二重構造によるのである。

 梶井文学が純粋な詩心を核としながらもついに詩の衣装をまとわなかったのはどうしてか。『闇の絵巻』に次のような一節がある。

またあるところでは渓の闇に向って一心に石を投げた。闇の中には一本の柚の木があったのである。石が葉を分けて戞々(かつかつ)と崖へ当った。ひとしきりすると闇の中から芳烈な柚の匂いが立騰って来た。

闇はむろん視力だけで捉えられるものではない。闇の底に潜んでいるものの気配に向って石を投げてみる諧謔心とそこから立ち騰ってくる芳香が明かす柚の木の存在、この死の世界における生命の輝きは光と闇のドラマという梶井文学の基本テーマのバリエーションである。この情感は限りなく詩に接近しながらも最後の一線で散文にとどまる。

黄金虫擲(なげう)つ闇の深さかな   虚子

闇の深さを測るのに黄金虫というところがいかにも俳句で、石というところが梶井の散文家たるゆえんである。しかし、両者の根本的な相違は闇の深さへの感動を<かな>という詠嘆の定型で受け止めるかどうかという点にある。梶井はついにそのような詩の枠組を受け入れることができなかった。感性の純度に頑なに殉じた梶井の文学は、小説の物語性も詩のリズムも不純な要素として排除したのである。詩への飛翔の瞬間にあらわれる詠嘆のリズムに虚偽を嗅ぎ分ける批評性が梶井文学の基調を決定してしまった。事物と感性の接点に生ずるスパークの純度に執し抜くストイシズムが彼の文学を貫いていた。詩には何がしかの陶酔の要素が不可欠であるが、彼のストイックな抑止力はそれを許さなかった。

 こうして梶井の文学は感性の純度に執しつつ私小説への傾斜を深めて行くのだが、結局最後の一線で私小説とも袂を別つ。『闇の絵巻』の散策の終りに近い場面で、暗夜の底から突如押し寄せてくる瀬の音の中に、

大工とか左官とかそういった連中が渓のなかで不可思議な酒盛をしていて、その高笑いがワッハッハ、ワッハッハときこえてくる。

この、瀬の音に大工の高笑いを聞きとる感覚、現象の中に仮象を見る彼の感性の二重構造が彼の作品を私小説から隔てていた。現実の実在性の信仰の上に立つ私小説に対して、彼の文学は現実は所詮仮象にすぎないという透視力の上に成り立っていた。私小説が超えられるのはそこにおいてであり、彼はそれを「リヤリスチック・シンボリズム」と呼んだ。

 『闇の絵巻』は闇の探求者梶井が自分の文学の集大成としてどうしても書かなければならない作品であった。感性の純度に依拠する梶井の作品はいつも絶頂から絶頂へ渡り歩いた感性の冒険の軌跡であった。その類縁性によって物語の絶頂を絵でつなぐ絵巻物の方法を呼び寄せるのである。闇の感動の集大成をめざした作品の表題として『闇の絵巻』とは言い得て妙である。むろん表題の見事さを内容が裏切りはしない。『闇の絵巻』はアンソロジーとして彼が到達した暗夜の美の総体を示して余すところがない。この後、彼は二つの作品しか書かなかった。もう一歩闇の神秘に切り込んだ『交尾』(昭5)と彼の人生の拾遺ともいうべき『のんきな患者』(昭6)の二作である。そこで彼は力尽きた。宿痾が彼を倒したのである。昭和七年、三十一歳で梶井は世を去った。ひたすら夭折への旅を急いだかのごとき生涯であった。

 彼の文学には一貫して旅情が流れている。彼はどこにも定住する場所を持たなかった。日常よく知っている現実が、例えば道一本取り違えることで全く見知らぬ迷路に変貌することがある。『路上』(大14)はそのような体験を記して

自分は変なところを歩いているようだ。何処か他国を歩いている感じだ。

という思いにかられて友人に<旅情を感じないか>と言ってみる。そのような迷路から発する旅情である。『闇の絵巻』は闇という迷路からの旅の報告書である。梶井の旅はいつも実在から非在への、物象から仮象へのはるかな旅であった。



梶井基次郎(明34―昭7)


初出 『貫生』第12号 1985年12月


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作家その原風景―評論


1.羅生門の闇
芥川龍之介
『羅生門』

2.花に嵐
井伏鱒二
『屋根の上のサワン』

3.病者のダンディズム
吉行淳之介
『漂う部屋』

4.狐の化生
石牟礼道子
『椿の海の記』

5.さらば司馬遷
武田泰淳
『蝮のすえ』

6.幻視異聞
大江健三郎
『空の怪物アグイー』

7.寓話の復権
阿部公房
『デンドロカカリヤ』

8.絶対の孤独
坂口安吾
『桜の森の満開の下』

9.鬼の歌
石川淳
『紫苑物語』

10.物語の闇
中上健次
『化粧』

11.飢えのユートピア
深沢七郎
『楢山節考』

12.仮象への旅
梶井基次郎
『闇の絵巻』

13.古譚の水脈
古井由吉
『杳子』

14.非在への反歌
伊藤静雄
『わがひとに与ふる哀歌』

15.対句の美学
中島敦
『山月記』

16.狼の系譜
佐々木マキの絵本
『やっぱり おおかみ』

旧稿 有島武郎論
『或る女』を中心に


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