非在への反歌 伊藤静雄『わがひとに与ふる哀歌』
一つの恋愛から一冊の詩集の生まれることがある。伊藤静雄の『わがひとに与ふる哀歌』(以下『哀歌』と略称・昭10)にはそんな明確な痕跡があるわけではないが、従来から<わがひと>は静雄がひそかに心を寄せた恋人であり、この詩集はその成就しなかった不幸な恋をめぐって成立したという読みが流布している。生涯勤勉実直な一中学校教師として生き、<誰だって詩を書くといふことは、はづかしいことに相違ない>といった一市民としての実生活を詩人の生涯と峻別して生きた静雄は、ついに自分の恋愛について語ることがなかった。だからそれは一つの恋愛伝説にすぎない。しかし、その伝説の中に静雄の躓きと起きあがり方、あるいは自己表現の原回路といったものが示されているように思われる。それが『哀歌』まで届いているとすれば、その伝説を一つの仮説としてこの詩集を読み解くのもあながち荒唐無稽とは言えまい。
しかし私はそれを事実として静雄の詩を読み解く人々に組するものではない。詩とはもともと現実の体験とのほぞの緒を断ち切ることなしには作品として成就しないのは他の文学作品と変わるところがない。「私小説」伝統の強い文学風土の中で、詩もまた「私詩」として読まれる不幸が続いている。詩を素材に還元して読む読みは倒立した読みに他ならず、詩は体験を土壌として育ちながら、育てた土壌を消去することなしには成立しないものである。そういう鑑賞の常識を確認してから静雄の詩の世界に入って行きたい。
さて、伊藤静雄の恋愛伝説とは、静雄と同郷、長崎県諫早市出身で、静雄の佐賀高在学中諫早女学校から佐賀高教授として赴任してきた酒井小太郎の次女百合子への恋である。静雄は同郷のよしみで酒井家に出入しているうちに心を寄せたのだという。酒井家が姫路、京都への移転の後も訪問は続き、とくに静雄の京大時代は京都の酒井家を頻繁に訪れた。酒井家は諫早の名家であり、小太郎は庇護者として静雄を暖かく遇した。諫早出身の国文学者川副国基の「詩人伊藤静雄の報われぬ愛」の中に酒井百合子の回想の手記が引用されている。それは回想という手続きと国文学者川副宛の書簡である点を考慮に入れなければならないが、二人の関係を如実に浮き上がらせている。最初に静雄に会った印象について、
あの顔に髪は肩まで垂らし、ズボンの膝は鍵裂きになり二寸ばかりの布が三角にさがったままでした。ニキビが一杯で私はあんなに汚い人は見たことがありませんでした。(中略)伊藤さんは石のように坐ったままでお茶も飲みませんでした。
<あの顔>といわれた風貌で不潔な高校生として彼女の前に登場し、やがて
京大生としての三年間、あの人は私の批評をし通しで、無力な私は痛いところにさわられてもひどく反撃することもできずその都度たよりない言いわけはしたものの腹が立ってひとり怒り通しでした。あの人は余りに優越感を持ちすぎ、育ちのちがいで全く無遠慮でした。横着で無礼でした。
と無礼な批評者として無遠慮に振舞うに至る。それに対する彼女の気持は
とにかく私の同志杜女専の学生の間も、うちの書生さん位の、目下の積りでした。私が学校を卒業しても、一族の間であの人と結婚などとは考えも及ばなかったことでございました。
とこの回想はほとんど残酷といってもいい調子で貫かれていて、彼女の側からの恋愛感情は完膚なきまでに打ち消されている。静雄が彼女に心を寄せていたとしたら、その不幸を思わないわけにはいかない。そのような彼女の心を静雄が気づかなかったはずがない。知っていたからこそ批評者として無礼に振舞いつづけたのではないか。それは報われぬ恋に対する青春の反乱、静雄のシュトルム―ウント―ドラングではなかったのか。彼の無礼は傷ついた自尊心の隠れ家であったように、彼の弊衣も高校生一般の単なるダンディズムではなく、もっと深く彼の羞恥をおおう仮装ではなかったろうか。それは<目下の者>と言われた地方の名家酒井家と中産下層階級出身の自分との身分的落差についての自覚に根ざしているように思われる。そこに発する一種の下降意識が弊衣をまとわせたのではないか。二人の関係の齟齬の本質が<育ちのちがい>という身分性であることを思い知ったとき、静雄が直面していたのはこの世を律している階級の原理とでもいうべきものであった。彼個人ではどうしようもないその超越的な力に対して、彼は弊衣と無礼によって自分の階級を対置する他なかったのである。自己の本質から一歩も撤退せず、一方では過度に自己否定的であり、他方では過度に自己主張的であるこのアンビバレンツでありながら奇妙にバランスのとれている自己表現の中に、彼の表現の原型があった。ここから彼の詩のイロニーまであと一歩であった。そのためには反抗が断念に行きつくための、いましばらくの時間が必要であった。晩年の静雄の最も身近にいた一人である桑原武夫が伝える次のような回想が静雄の断念への道行きを示している。
彼は国文法の時間に文例を黒板に大書して品詞などの説明をしたが、それがいつも「わたしにはお金がない」というのであった。そうしたことと生徒の答案を丸めて粗服の小腋にかかえて歩く姿から、大阪一のブルジョワの中学の生徒たちによって彼は「乞食」というあだなをつけられていた。
この弊衣の下には青春の傷が癒されないままかさぶたとなって固着してしまっていた。この生涯弊衣の決意の底に深い断念が隠されていた。<秧鶏(くいな)は飛ばずに全路を歩いて来る>という飛ぶことを拒否した鳥の頑な断念のごときものが彼の中で痼疾のごとく凝縮し、彼の生きる姿勢を決め、やがて彼を超えて行く。こうした長い沈潜と格闘をくぐり抜けて、断念が詩へ開花する表現の回路が探り当てられるのである。
わがひとに与ふる哀歌
太陽は美しく輝き
あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ
手をかたくくみあはせ
しづかに私たちは歩いて行った
かく誘ふものの何であらうとも
私たちの内の
誘はるる清らかさを私は信ずる
無縁の人はたとへ
鳥々は恒に変らず鳴き
草木の囁きは時をわかたずとするとも
いま私たちは聞く
私たちの意志の姿勢で
それらの無辺な広大の讃歌を
ああ わがひと
輝くこの日光の中に忍びこんでゐる
音なき空虚を
歴然と見わくる目の発明の
何にならう
如かない 人気ない山に上り
切に希はれた太陽をして
殆ど死した湖の一面に遍照さするのに
わが愛する人は確かに眼前に実在しながら、その人は如何なる意味でも恋人とは名づけられない遠い非在の人である。そのような愛と非愛の矛盾相においてこの詩の表現は成り立っている。静雄は誰にでもあるごくありふれた恋愛体験をそのような関係相の表出まで純化したとき、この詩は書きはじめられたのである。それは決して生(なま)の体験ではなく、一つの世界の関係を示す詩の構造として成立しているのである。
太陽は美しく輝き
あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ
一行目の素朴実在の太陽が、<あるひは>という保留、転換の接続詞による転調に促されて、異空間の非在の太陽へと変貌する。眼前の具象が突如何の手がかりもない非在と化す。そのような矛盾相において存在する世界の構造、存在様式を踏まえてこの詩は成立する。彼の恋愛伝説はこのような関係式を媒介として詩へと変換する。大切なのは実在からイデーへの変換が彼の詩法の根幹であるということだ。だからここには酒井百合子というような生の人間が顔を出す余地は全くなく、生と死、あるいは光と闇というイデーのドラマが演じられるのであり、希求と断念の心情のドラマが伴奏として奏でられているだけなのである。これをもし恋愛詩と読むとしても、恋のかなたの恋の詩として読まるべきだ。この詩を展開させていくのは、実在の太陽は虚相の太陽であり、非在の太陽こそ真実の太陽であるという逆説なのである。だから<私たち>は非在の太陽を求めて遠くはるかな旅へと歩み出すのである。
手をかたくくみあはせ
しづかに私たちは歩いて行った
かく誘ふものの何であらうとも
私たちの内の
誘はるる清らかさを私は信ずる
<とも>という逆接仮定の接続助詞が作り出す条件と帰結の落差の中で、<誘ふもの>と<誘はるるもの>の深い亀裂が呈示される。ここでもまた冒頭一行と二行目の実在から非在への転調が反復され、<私たち>を太陽へ誘う外部の現実から、私た ちの内部の誘われる清浄さへの跨ぎが歌われる。その外部と内部の断層は<私は信ずる>という表現によって超えられるが、この言葉には何か不条理なものへの衝動といったものがこめられている。それは<何であろうとも>〜<信ずる>という表現に由来していて、この表現がはらんでいる合理的なものへの反感、何か盲目的強引さといったものが私たちをある危険な傾斜へ誘い出し、生の限度を踏みこえるかなたへと駆りたてる。この不条理に基づくある頑な悲願について詩人は読者の了解を求めない。詩は一方的に読者を試し、その資格を問うのである。現代詩の難解さはそういう詩人の倨傲の上に現われることもある。
無縁の人はたとへ
鳥々は恒に変らず鳴き
草木の囁きは時をわかたずとするとも
いま私たちは聞く
私たちの意志の姿勢で
それらの無辺な広大の讃歌を
ここにも<とも>という逆接仮定の助詞を愛用する不条理の精神が、あの実在から非在への転調を作り出している。光から音へと世界の基軸が変換されても同じ主題が繰り返される。<たとへ>〜<とも>という仮定法によって再び示される条件と帰結との落差、その条件文の内実は、
鳥々は恒に変らず鳴き
草木の囁きは時をわかたずとするとも
という対句的語法によって自然は形式化、抽象化され、希求と無縁な人には自然は不変の実在としか現われず、いつもと変らず、いつもと同じ音声を発している世界にすぎない。そのような素朴実在の自然の表層を掘り下げ、食い破る<意志の姿勢>で私たちはかなたのもう一つの自然の広大無辺な宇宙に満ちあふれる<讃歌>を聞くのである。この自然の深層の底で鳴りひびいている非在の、無音の讃歌を聞きとるためには<意志の姿勢>という不条理な衝動がなければならない。それは<希ひ><信ずる>と詩をつらぬいて流れる悲愴にして盲目なる祈願を受け継いでいる。ここに至ってすべての他者は<無縁の人>として排除され、<私たち>だけの孤絶した世界が現出する。その寂寥の世界に無音の、非在の讃歌があふれるのである。それははたして<讃歌>なのであろうか。倒置法という語法と相俟って<讃歌>はひそかに<哀歌>に転調される。この詩はそのようなイロニーに彩られている。<私>は渾身の力をふりしぼって讃歌に到達した。その讃歌によって太陽の美しく輝くユートピアが現出したか。否! 光はたちまちにして闇へと変転する。幾度も繰り返されるこの変転は何によるのか。光が闇と化す根源が突きとめられねばならない。
ああ わがひと
輝くこの日光の中に忍びこんでゐる
音なき空虚を
歴然と見わくる目の発明の
何にならう
光を闇と化すのは<目の発見>のしわざである。よく見えすぎる目、あらゆる事象の背後に虚偽を見ずにはおかない潔癖性、自らの内に巣喰うこのどうしようもない不条理な病理がつきとめられる。光を闇と化す犯人はつきとめられ、詩人は自らの内なる闇の根源にたどりつく。現実の虚妄の彼方にユートピアを求める精神がユートピアそのものの虚妄までも明かしてしまう。<目の発明>とはそのような両刃の剣に他ならなかった。詩人はこうして現実の彼方のユートピアをこえ、そのユートピアの彼方の空虚に行きついてしまう。この浪漫主義が行きつく極北で、自らの浪漫精神を<目の発明>と名づけて、最後の力をふりしぼって拒絶の言葉を投げつける。<何になろう>という拒否の言葉は、しかしその微妙な反語法の反転力によって、かえって闇の力を強めてしまう。こうして太陽の美しく輝くユートピアを求めてそのはてに、闇が闇ですらない空虚の宇宙に到達する。そのとき呼びかける<わがひと>にはどこにも他者の面影はなく、自分の内なる自分、分ちがたいわが半身に他ならない。この孤絶の空虚を詩人はもう一押し向こうへと反転させる。
如かない 人気ない山に上り
切に希はれた太陽をして
殆ど死した湖の一面に遍照さするのに
輝く太陽を求めた私たちの歩行はついに事志に反して<人気ない山>に到る。人間世界を横断し、草木や鳥々の自然界を通過し、誰もいない無人世界に到達する。希求すればするほど太陽は遠ざかるかのごとくである。それでも一歩なりと太陽に近づこうと登高すれば、眼下には太陽ならぬ<死した湖>が広がっている。ついに私たちは底なしの虚無、荒涼たる死の世界に入ってしまったのである。私はなお太陽への希求を放擲したりはしない。心ならずも到達してしまった死の世界を<切に希はれた太陽>によって蘇生さすべく一縷の祈りにすがりつく。しかし、非在の太陽の光線は死の世界の荒涼を一層際立たせるかのごとく寂蓼の光線をいたずらに放射するばかりである。この無限希求の祈りのはてに現出するのは一つの異界であり、反世界である。光と希望に向かって歩むことはとりもなおさず闇と絶望に行きつくしかない反語的世界である。『哀歌』はそのような反語的構造を詩法として確立した詩集である。例えば文語法と口語法の混在するこの詩の中で<如かない>という一語がそのようなイロニーの構造の特徴をあざやかに示している。もともと漢文法に基づく「不如」はあくまで「しかず」であり、「しかない」はほとんど誤用に近い。しかしこの<如かない>の軟かいひびきは、前行の<何になろう>という反語の強い否定法を受け、次の<人気ない>の<ない>とひびき合いつつ、倒置法と相俟って絶妙な転調を奏でる。そして作品構造全体の反転力と呼応しつつ、見事なイロニーを表現する。希求の地がたちまち追放の地となり、讃歌が哀歌へと変奏される。この詩が持つイロニーの構造はその根底では詩が持っているフィジックからメタフィジックヘの通路に支えられているのである。生から死への通路と言ってもいいし、世界から反世界への通路と言ってもいい。その実在から非在への通路を発見することで伊藤静雄は詩人となるのである。通路は静雄の中で一つの恋が封殺されたときその断念の中で発見されたように思われてならない。青春を自らの手で葬った詩人はもう青春を歌うことはない。
私はうたはない
短かかった輝かしい日のことを
寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ
歌うことを拒否することによって青春が歌われるイロニーとして静雄の詩が現われる。詩の否定を詩の根拠とするメタフィジックの詩人が誕生するのである。
『哀歌』の伊藤静雄は本質的に浪漫的な宙づりの詩人であった。「帰郷者」の反歌の
田舎を逃げた私が、都会よ
どうしてお前に敢て安んじよう
という無根拠性に彼の生は依拠していたのである。これはすべてに当てはまる方程式である。
詩作を覚えた私が、行為よ
うしてお前に憧れないことがあらう
とも言う。人は長くそのような宙づりに耐えられるものではない。しかし探り当てた根拠を一つ一つ虚妄として踏み抜いて行かざるを得ない無限希求の浪漫精神には安住の地はなかった。あらゆる場所から拒まれたとき人はどこへ行けばいいのか。『哀歌』に死の影が濃いのは理由のないことではない。自らの死を主題とした「曠野の歌」の最後で
わが痛き夢よこの時ぞ遂に
休らはむもの!
とひたすら死の救済を祈らずにはおられなかったのである。しかし『哀歌』のイロニーの方程式
生を逃れた私が 死よ
どうしてお前に敢て安んじやう
に当てはめるまでもなく、救済は訪れず、死はさらに死のかなたの生への反転して行く他なかったのである。すべての実在を拒み、ひたすら彼方なる非在へ疾走する<痛き夢>は詩形式を歪曲するほどの抒情の冒険と化し、<休らふ>場所へは行きつかなかった。人はしかしそのような夢の過酷さに長く耐えられるわけではない。次の詩集『夏花』(昭15)ではそれはすでに一つの美的安定へと救出されるのである。
伊藤静雄(明39―昭28)
初出 | 『貫生』第14号 | 1987年3月 |
Copyright (c) 2005 Kunio & Taéko Matsumoto. All Rights Reserved.