さらば司馬遷 武田泰淳『蝮のすえ』
古来、冒頭一行の輝きによって、不朽の名作として人々の記憶にとどまるような幾つかの作品があるが、武田泰淳の『司馬遷』(昭18)もそういう名著の一つである。その冒頭<司馬遷は生き恥さらした男である>は一読、ある感銘を与えずにはおかない重い衝迫力を秘めている。この日本評論文学の白眉の名著をものしたエッセイストが、戦後、作家に転身しようとして、『審判』(昭22・4)、『秘密』(昭22・6)についで、三作目『蝮(まむし)のすえ』(昭22・8)で、『司馬遷』のあの著名な文体へ回帰するのである。<生きていくことは案外むずかしくないのかも知れない>と。この評論と小説の冒頭の部分を併記してみる。
司馬遷は生き恥さらした男である。口惜しい、残念至極、情なや、進退谷(きわま)った、と知りながら、おめおめと生きていた。腐刑と言い宮刑と言う、耳にするだにけがらわしい、性格まで変るとされた刑罰を受けた後、日中夜中身にしみるやるせなさを噛みしめるようにして、生き続けたのである。そして執念深く『史記』を書いていた。(『司馬遷』)
生きていくことは案外むずかしくないのかも知れない。戦争で敗けようが、国がなくなろうが、生きて行けることは確かだな。・・・・最初は恥を忍んで生きている気でいた。だがフト気がつくと、恥も何もなく、ただ生きているだけの一枚看板であった。(『蝮のすえ』)
二つの文章は、ともに恥辱にまみれてふてぶてしく生き永える人間の不逞な強靱さといったものにつらぬかれている。寺に生まれて僧侶であることの恥ずかしさに発して、<酒を飲まずに、小説なんか恥ずかしくて書けるか>という作家であることの恥ずかしさに至るまで、恥ずかしさこそ武田泰淳の存在の核をなすものである。恥辱をめぐって人物が形象されるとき、その人物が重い存在感を漂わすのは、彼のそのような存在の構造にかかわっているからである。これらの文章も泰淳的深淵から発せられたがゆえの、重い充足感を持っている。しかし、この二つの文章の微妙なひびきの差もまた見逃がしてはならないものである。泰淳の恥辱の最も痛切なるものは、中国体験にかかわっている。中国文学研究者でありながら、侵略者として軍靴で中国の土を踏み、征服者の一員に連なって特権を享受して生きた体験こそ、彼の恥ずかしさの極をなすものである。その自分の恥辱を司馬遷の恥辱に重ね合わせて『司馬遷』を書いた。『司馬遷』の文体は直情にあふれ、ひたすらである。同じ中国体験の恥辱をモチーフとしながら、『蝮のすえ』の文体は屈折したひびきを持っている。エッセイストから作家への転身の事由は、上海における敗戦体験を抜いては考えられない。異国での敗戦において自分が<滅亡の民>として根こそぎ否定される現実に直面する。それは『史記』の<滅亡>の追体験に他ならなかった。そのような史記的体験の中で、自分が体験している滅亡をその微小な一点に吸収してしまう『史記』という世界の巨大さが改めて彼を打つのである。同時にその巨大な世界全体を記録した司馬遷という男の巨体もまた、彼の前に聳立(しょうりつ)するのである。司馬遷と自分の目も眩むばかりの落差、自分の身の丈いっぱいの背伸びをしてみても、なおあまりに相手が巨大であるとき、ふと身を屈めてみる以外のどんなしぐさが可能であろうか。すると、彼の偉大さと自分の卑小さはいっそう際立ち、極限まで拡大された落差の中から生ずる奇妙で滑稽な平衡感覚、そのときパロディという方法が発見されるのである。史記的滅亡体験に立ちむかうとき、自分のちっぽけな小説の方法としてパロディ以外のどんな方法がありえようか。かくて、司馬遷コンプレックスを逆手にとっての『史記』のパロディとして『蝮のすえ』は書かれるのである。『蝮のすえ』がパロディである以上、主人公<私>=<杉>は司馬遷のごとき記録者であるはずがなく、しがない<代書屋>として設定されるのである。かくて聖書の中の神の怒りからのがれられない偽善者、パリサイ人なる<蝮の裔>というタイトルが与えられるのである。
中国語の書類を作る代書屋の私のところに<美麗な動物>のような彼女が<女の匂い、女のあたたかさ、女の光>をまとって現われる。<私、先生の詩よく読んでいますわ。主人も先生の詩が好きです>と私の昔の甘ったるい詩に言及して私に血が逆流するような屈辱を与える。私はすでに抒情を軽蔑し、理想も信念もなく、ただ生存しているだけの代書屋なのだ。それから、<私は恥を忍んで生きているんですの>といって、彼女のつらい、恥ずかしい身の上話をはじめる。戦時中・彼女は軍部と結びついて権力を恣(ほしいまま)にした夫の上司、辛島によって暴力的に所有されていたという。夫が辛島によって漢口に派遣された留守中、辛島に毎日辱しめを受けたという。しかし、私は彼女の話を素直には聴けなかった。私は自分の身にあてはめても、<つらい恥ずかしいの念も忘れてただ生存して行こうとする、イヤらしい、憎らしい人間の本能>を彼女の上に想像するからだ。私は淫女の要素を持っていそうな彼女の魅力に確実にからめ取られていく。<あなた、わたしを守ってくれる? 愛してくれる? わたしは、あなたを愛しているのよ>というように、彼女が自分の考え抜いた筋書きに従って私に接近し、私はその筋どおり彼女との恋愛関係におちこんでいく。私は彼女を通して彼女の夫と結びつき、<ね、あなたに辛島が殺せる?>という彼女のことばを通して辛島に結びつく。こうして私は、彼女をめぐる四角関係の網の目に組み入れられていくのである。
<あなたに辛島が殺せる?>という彼女のことばによって『史記』の世界に充満していた殺意がこの作品にも漂いはじめる。滅亡と殺人は『史記』の基本テーマであり、したがって泰淳の小説の基本テーマでなければならない。しかし、この作品が『史記』のパロディである以上、その殺意もパロディックなものに変形せざるを得ないのである。ある日、私は辛島に呼び出されて会見する。その席上、辛島は彼女をフランス租界に連れ去る。邪魔をすると殺すと通告する。<権力をつかみ取ったその力は俺の力だからな。え、いいかい、依然として俺自身の力だからな>と権力を失ってもなお自信に満ちた辛島がそこにいた。その辛島を私は殺せるか。
インテリーは社会の良心だ。そうだな、杉君。イヤがってもそれは責任だ。だが君らは社会の腕にも脚にも、胃にも腸にもなれやせん。せいぜいのところ神経だ。小うるさい、役にも立たぬ神経だ。しかも妙てけれんな一人種の末梢神経だ。騒いでもだめさ。世界も、俺たちも痛痒を感じんよ。俺たちは、まあ大げさに言えば心臓さ。とまりたい時はとまる。自分でとまる。君らにはとまることさえできないんだからな。
というのが辛島のインテリ批判である。作者の自己批判でもある。その会見の帰り、私は酔い乱れた足どりで、<奴が僕を殺す?><心臓が神経を?>と考えながら、わざと膝を曲げ、頭上の両手をゆらゆらさせ、ゴリラのようにして深夜の裏街を歩く。すると私は、あたかも森林を出て、血潮したたらんとする現場にいそぐ膂力(りょりょく)すぐれた怪獣のごとき力にあふれてくるのであった。日僑(中国在住の日本人)として中国衛兵に対するお辞儀や規則を守るといった市民的用心は消え失せてしまう。頭上に手をあげ身を屈めるとき、インテリとしての自分の内部に閉じこめられていた野生のエネルギーが解き放たれる。その文明以前の野獣的力の深淵を秘めているのが泰淳文学の魅力の一つなのだが、おどけたしぐさなしには、自分の深部に到達できない深い羞恥がパロディという仮面を必要とする。『史記』の刺客のパロディとしての森林のゴリラを通して、私の殺意は単なる末梢神経の痙攣現象ではなく、もっと黒々とした野獣的なものに根ざしていることを、この場面はユーモラスに表現している。
私は、彼女が暴力で租界へ連れ去られ、彼女の病気の夫がひとり残される、それを拒むのが正義だと考えたのではない。私は正義が存在するとは思っていなかった。しかし、私は事件から身をひくことは自分がゼロになることであることに気づいた。私は自分がゼロになることを拒否する人間だという発見に驚く。彼女は、<わたしを守ってって頼んだでしょう。あれ取り消すわ>と私を辛島の所へ行かせまいと懸命に止めるけれども、私はすでに自分の運命を決めてしまっていた。私は正義という外在的基準を拒み、ゼロになることを拒否するという内在的、実存的基準によって自分の行為を測定したとき、私は史記的世界とは異質の、戦後世界のただなかに生きていたのである。<恥も何もなく、ただ生きているだけ>の人間から、<ゼロになることを拒否する>人間へ、私を駆りたてたのは何か。
このまま何事もなく帰っては、貴重な機会を失する、そんな気がした。重苦しい涙や血で汚れた真実の塊りをギュッとつかんだ時の、戦慄が予感された。帰国前に、この上海で、そのグニャグニャした豚の内臓のように気味の悪い塊りを握らなかったら、永久にそれは私の前から姿を消すであろう、と思われた。もう一歩だけ進まねばならなかった。
これはこの作品のモチーフであるだけでなく、たぶん泰淳文学をつらぬくモチーフなのだ。泰淳にとって世界はその核の部分に<グニャグニャした豚の内臓のような気味の悪い塊り>を内包しているものなのだ。そのような非合理的混沌への傾斜を持つゆえに、泰淳文学は、どこかで現在の地平を超える不気味な深淵をのぞかせているのである。私を殺人のほうへぐいと一押し押しやるのは、そのような原始的混沌への衝動なのである。
かくて私は辛島との対決にふみ切るのだが、それもあまりに他人まかせ、あまりにその場かぎりであった。私は武器さえも考慮していなかった。出かけるとき、そこらに転がっている小刀と、下宿の主婦の使っている斧を持って行く。この斧はもちろん、ラスコールニコフ(『罪と罰』の主人公)の斧以外の何物でもない。<私にはラスコールニコフのような強靱な思想も綿密な計算も、冷静な用意もない、何よりもあの深さがない>とすれば、私はラスコールニコフのパロディを演ずるより外のどんな演技ができようか。私がその斧を持って辛島に切りかかったとき、辛島の背中にはすでに一本の鋭利な刃物が突き刺っていた。私は何と滑稽な刺客であることか。この殺人場面の滑稽化には、自分の作品の主人公が殺人という大それた本質的な行為にコミットするについての作者の深い恥じらいがある。深いドストエフスキー・コンプレックスがある。ドストエフスキーは上海体験の中で深く彼を捉えた作家であり、彼の作家への転身に際して、多大の影響を受けた巨人である。
私は辛島殺害事件で滑稽な役廻りを演じたのだが、彼女の夫は私が辛島を殺したことを信じて疑わなかった。
自分のために殺人が行われ、それで私は満足し、安心していられるかどうか。僕は急にいてもたってもいられない苦しさ、恥ずかしさ、すまなさがこみあげてきて、泣いてしまいました。
しかし、私は辛島の死が忘れられない。彼が死ぬときの<おびえたような、情けなさそうな、訴えるばかりの目>を忘れることができない。人を殺したことの重さがずしりと私にのしかかる。私は辛島の死後すぐ、病院船で彼女と彼女の夫の付添の形で乗船して帰国の途に就くが、私の重苦しさはつのるばかりだった。辛島の死後、彼女の夫は、彼女が私を好きなことを嫉妬しはじめる。彼女でさえ辛島の影をひきずって私を脅かす。ある日、船上での私と彼女との会話、
「わたしをまだ愛しているの、え?」
「重苦しくて、ほかのことは考えられないんだ」
「何がそんなに苦しいの?」「辛島のことなの、わたしの夫のことなの?」
「全体だよ。自分が生きていることの全体だよ」
<生きていくことは案外むずかしくないのかも知れない>と冒頭で示されたところから、殺人を契機として、彼は<グニャグニャした豚の内臓のような気味の悪い塊り>にも似た苦悩に至りつくのである。作者は、恥辱の上に居直る人間の、人生のどん底に腰をつけたかにみえる安定も、仮りそめの安定にすぎなかったことを、私が恋愛という空間をずるずるとすべり落ち、苦悩の地獄に至ることを通して明らかにする。ここに至って一つの人間のドラマの環は閉じられようとする。
しかし、作者は主人公をもう一押し、向こうへ押しやるのである。病人は衰弱し、確実に死に近づいていく。ある日、病人は私に辛島の死について語る。
「あなたは、見ていて、あいつの心の中がわかりましたか。僕には、わかりますよ。死にかかって、あいつが考えていたことが」「自分が死んで、あなたが平気で生きていることは、何という妙なことだろう、とそう思っていたでしょうよ」「僕も、今、そう思っているところですよ」
そう話す彼の顔には、
とりつくしまのない意地悪さ、徹底した敵意が、色のわるい皮膚の全面ににじみ出していた。
彼女をめぐる四角関係は辛島の死によって三角関係になる。四角関係の中で隠されていたものが、次第に明瞭な姿を現わしはじめる。病人の視線の中で、私と辛島の位置が入れ換ってしまう。病人自身死が近づくにつれて死んだ辛島に近づき、重なってしまう。作品は最後に至って病人の視座が浮上して作品全体を照らしはじめる。死者の徹底した悪意の視線によって、私の殺意はあばかれる。それは彼女の夫のためなんどでは毛頭なく、私個人の恋愛感情に発した情痴のなせるわざではないのか。こういう死者の視線によるパロディックなどんでん返しの光に当てられて、私の重い苦悩の意味が解明される。
こうして『史記』のパロディとして書きはじめられた作品が、司馬遷的世界を突き抜けて、死者の視線の絶対性に裁かれる人間存在の偽善性という戦後文学の新しい地平にたどりつくのである。
最後に、四角関係という虚構の崩壊した私の目に、かつて「美麗な動物」として私を魅惑した彼女が、聖女に変貌するさまが描かれる。辛島を殺させたのは自分であると告白して私をいたわる彼女の姿が、<澄んだ水で患者の傷口を洗う美しい看護婦>のような聖女として現われる。彼女が事件の中で浄化されたように、私もまた<蝮のすえ>の苦悩そのものをひたすら生き抜くことによって浄化に至る道がかすかに暗示されている。彼女の<死なないでね>ということばは、私の浄化への祈りなのである。
戦後、エッセイストから作家への転身の模索の中で書いた第一作『審判』は、戦後作家としての彼の思想の核となる<滅亡論>を背景に、無辜の中国老人を殺害した二郎の贖罪を追求した倫理的作品である。第二作『秘密』は、<神の悪意>という反倫理性に立脚する小説の方法論を探求した作品である。第三作『蝮のすえ』は、この思想も方法も全く反対のベクトルを持つ二作品をふまえて、パロディという屈伸自在な小説の方法を発見することで、深々とした小説空間を構築してみせたのである。この『史記』のパロディという小説の宝庫を開くかぎの発見は、芥川の『今昔物語』発見を超える文学史的事件であった。しかし、彼の小説の道行きは芥川文学ほど単純ではなかった。その変幻する多様な作品群を創り出す泰淳文学の、それらの作品の根底のところに、『史記』のパロディという位相が読みとれるばかりだ。そして、最初の長編小説であり、初期短編小説の総和でもある『風媒花』(昭27)の中に、その方法は集約される。『風媒花』は泰淳の史記である。まことに『蝮のすえ』にはじまり『風媒花』に至るまでの初期短編には、パロディによって司馬遷を超えんとする不逞な志が鳴りひびいているのである。
武田泰淳(明45―昭51)
東京本郷の潮泉寺に生まれる。父の師僧武田氏を継ぐ約束で出生時から武田姓を名のる。僧侶となるべく運命づけられていた彼は仏教から深甚な影響を受けた。諸行無常の定理を基軸とする彼の文学は、相矛眉する要素をのみこんで多元多彩な様相を呈する。
初出 | 『貫生』第4号 | 1981年10月 |
単行本 | 『作家 その原風景 短篇小説さすらい抄』 | 1985年3月 |
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