< 松本邦夫遺稿集 作家その原風景 幻視異聞 大江健三郎『空の怪物アグイー』

幻視異聞 大江健三郎『空の怪物アグイー』

 詩人はいつも現実の彼方にもう一つの世界を見続けてきた。それは多分、文学というものの基本的性格であり、文学の原初的形態である詩において、際だった形であらわれるものであるらしい。例えば、日本文学の発生期、初期万葉の詩人は次のようにうたう。

わたつみの豊旗雲に入日さし今夜の月夜明らけくこそ

この古代の詩人は、夕焼けの海に旗雲がたなびく現実の風景を見、同時に、その彼方にわだつみの神の宮殿にはためく神の旗を見たのである。この正視と幻視の二重の視力こそ詩人の基本的能力であり、詩が本質的に比喩に根ざした異文である証左でもある。比喩とは一つのものを表現するのに、もう一つの異質のものに結びつけることによって濃淡二重の映像を結ぶ表現法だから。大江健三郎の文学の新しさは、何よりもその文体の新しさにあり、その文体は比喩を核とする詩的表現なのである。そのメタファーを構造的に取りこんだ文体で書かれた作品は、必然的にメタフィジックヘの通路を持ち、作品はある種の寓意性を帯びざるを得ないのである。そういう資質を開花させて大江は『奇妙な仕事』(昭32)にはじまる初期短編群を書き、「牧歌的な少年たちの作家」という位置を確立した。やがて、大江はその確立した牧歌的抒情性を否定し、『われらの時代』(昭34)にはじまる性と政治を主題とする諸作品を書き、「反牧歌的な現実生活の作家」への転身をはかるのである。その苦渋にみちた苦闘のなか、昭和三十八年六月、最初の子供が頭蓋骨に異常を持って生まれるという生活上の危機が、彼の文学にもうひとつの転機をもたらすのである。『空の怪物アグイー』(昭39)はその異常児を扱った最初の作品であり、次のように書きはじめられている。

 ぼくは自分の部屋に独りでいるとき、海賊のように黒い布で右眼にマスクをかけている。それは、ぼくの右眼が、外観はともかく実はほとんど見えないからだ。といっても、まったく見えないのではない。したがって、ふたつの眼でこの世界を見ようとすると、明るく輝いて、くっきりした世界に、もう一つの、ほの暗く翳(かげ)って、あいまいな世界が、ぴったりかさなってあらわれるのである。そのため、ぼくは完全舗装の道をあるいているうちに不安定と危険の感覚におびやかされて、ドブを出たドブ鼠のように立ちすくんでしまうことがあるし、快活な友人の顔に不幸と疲労のかげを見出して、たちまちスムーズな日常茶飯の会話を困難な吃りの毒で台なしにしてしまうことがある

このぼくの視線、<明るく輝いて、くっきりした世界>と<ほの暗く翳って、あいまいな世界>が重って見える視力こそ、大江健三郎の基本的な眼である。大江は決して、明るく輝いて、くっきりした明視の世界のみを見るリアリストではなく、いつも世界の裏側を透視する暗い幻視を持ち合わせてもいるのである。この視力の二重性は文体の二重性と照応しているのである。<不安定と危険の感覚>という平叙体は<ドブを出たドブ鼠のように立ちすくむ>という比喩体におきかえられるのである。明暗二重の視力は、濃淡二重の文体に対応しているのである。こうしてこの作品は、主人公Dの正気と狂気、現実と幻影の交錯する不思議な世界を語るのに、語り手<ぼく>が、<ふたつの視力二・の眼>の一つを失うことによってはじめて、語り手たる資格を獲得するというふうに設定されているのである。正視を失うことによってはじめて見えてくるDの世界とは、いったいいかなる世界なのであろうか。


 語り手<ぼく>はある銀行家の息子の若い作曲家Dの外出付添いのアルバイトに傭われる。Dの空にはいろんなものが浮游していて、その中にカンガルーほどの木綿地の白い肌着を着た肥りすぎの赤んぼうがいて、それが空から降りてきてDを訪れるという。そういう異様な幻影にとりつかれている故に、Dはひとりでは外出できないのである。ぼくと最初の外出のとき、Dはあたかも自分が存在していないかのように、<透明人間>のように振舞う。電車の中でも、<擬装死の小っぽけな獣みたいな状態><気むずかしげな沈黙の牡蠣>となってしまう。これらの比喩を形づくる<獣>や<牡蠣>は大江作品にあらわれるなじみの比喩であり、大江文学の原郷がいかなるものであるかを暗示している。

 ぼくはDの看護婦を待伏したり、Dの命令でDの離婚した妻を訪問したりして、Dの幻影をつきとめようとする。以下はぼくの聞き出したDの離婚した妻の話である。

わたしたちの赤んぼうは生まれたとき、頭がふたつある人間にみえるほどの大きい瘤が後頭部についていたのよ。それを医者が脳ヘルニアだと誤診したわけ。それを聞いて、Dは自分とわたしとを恐ろしい災厄からまもるつもりで、その医者と相談して、赤んぼうを殺してしまったのよ。・・・・ところが死んだ赤んぼうを解剖してみたら、瘤は単なる畸型腫にすぎなかったのよ。それにショックをうけたDが幻影を見はじめたわけ。かれはもう、自分のエゴイズムを維持する勇気をなくしたのね。そして、かつて赤んぼうを生かせることを拒否したとおなじように、こんどは、自分が積極的に生きることを拒否したのね。

長男が頭蓋骨に異常を持って生まれ、手術を受けた事件は、大江を痛撃し、彼を根底から震駭(しんがい)させた。この実人生上の事件に大江はどのように立ち向かったかは、それから半年後に発表されたこの作品が語っている。ただこの作品には、事件から受けたであろう生々しい衝撃はすっかり拭い去られて、嬰児殺しというモチーフを残したばかりである。そしてそのモチーフの鋭い刃で自分の内面世界を切り開いてみせるのである。この生の事件と作品の関係には、やはりあの二重の視力が働いていて、実人生上の事件は見事に文学上の事件へ昇華されていたのである。

 赤んぼうを殺した罪の意識のために、自分が積極的に生きることを拒否したDの内面の世界がぼくの探索によって少しずつ明らかになっていく。ある日、ぼくとDは自転車でD邸の周辺をひとめぐりする。そして野菜畑のあいだの有刺鉄線の張られた一本道で、Dのそばにかれの想像上の怪物アグイーが降りてくる。ぼくがDの看護婦から聞き出した話では、アグイーは犬と警官をこわがるということだった。ところが、この逃げ場のない一本道で十頭以上の犬の群をひきつれた調教師風の男に出合ったのである。犬の群が近づき、Dはかれのアグイーが犬の群に襲撃される恐怖に怯え、やむなく犬どもに立ち向かい、ずたずたに咬み裂かれてしまうだろう。ぼくは恐怖に立ちすくみ、硬く瞼を閉じ、茫然と涙を流して自己放棄する。そのとき、ぼくの肩に<信ずべからざる優しさの、あらゆる優しさの真の核心の優しさの掌>が置かれるのを感じる。ぼくはアグイーに触れられたように感じたのだが、それはぼくの雇傭主Dの掌であった。危機は回避されていた。アグイーはどうなったのか。Dはもうアグイーには気をつかうことなく、ぼくを救おうとしていた。恐怖にうちのめされて自失したぼくに救助の手をさしのべるDの大きな愛の掌、その優しさはいったいどこからきたのか。その出来事の直後、Dは自分の幻影について次のように語る。

空を、地上から、ほほ百米のあたりをアイヴォリィ・ホワイトの輝きをもった半透明の様ざまの存在が、浮游しているんだから。なにが空いっぱいにうずめて輝きながら浮游しているかといえば、それはわれわれが、この地上の生活で喪ったものだ。

この地上で喪ったものが空を浮游している世界、不可視なものが明視化され、喪い続けることが増え続けることであるという逆説的空間を創り出すことで、大江は喪失の意味を解きあかしてみせるのである。大江が作家としての盛名の坂を登り続けることで喪い続けていたものが、異常児の出生という衝撃によって一挙に明視化される。大江はこの事件で彼自身の本来の位置にひきもどされる。その作家の位置から、自分の内部の暗闇に照明を当ててみるのである。するとその暗闇の奥にうずくまっている狂気のかたまりの中に嬰児殺しの想念が一瞬よぎるのが見える。すでに人間内面に巣喰う狂気の影は『鳥』(昭33)でその形象化の試みはなされているが、この作品ではもう一段深刻化されて、メタフィジックな空間の設定まで進んでいる。<浮游しているそれらの存在を見る眼、降りてくるかれらを感じとる耳、それらはわれわれがそれ相応の犠牲をはらって獲得しなければならないものだ>このようなメカニズムを持ったDの内面世界、Dはそれを説明するのに中原中也の詩「含羞(はじらい)」を引用する。

枝々の、拱(く)みあはすあたりかなしげの
空は死児等の亡霊にみち、まばたきぬ
をりしもかなた野のうへは
あすとらかんのあはひ縫ふ古代の象の夢なりき

初恋の甘美な思い出にふけるときでも、中也の呪われた空には死児等の亡霊にみちていたのである。それは、痼疾(こしつ)のごとく死と狂気を抱えこんでいる大江の宿命の琴線にふれる。大江が中也の詩を核とする詩的作品を書く所以である。この作品には抒情詩の静謐(せいひつ)、喪失を悼む鎮魂歌のひびきがある。大江の創り出した不思議な空間は、<それ相応の犠牲>大江の深い創痍によって創り出されたものである。その生々しい傷跡を拭い去って美しい異聞にまで織りあげた想像力というものを思わないわけにはいかない。

 優しさはその想像力の質と深い関係があるだろう。Dの優しさについてDの愛人の女優の次のような証言がある。

死んだ人間の霊は、生きてた最後の瞬間の状態で思い出とともに永遠に存在しているはずでしょう? ・・・・Dちゃんは、赤んぼうの死んだ瞬間から、もう自分も死んだ人間のように新しい思い出はつくるまいとして、この現実の<時間>を積極的に生きなくなったんじゃない? それから赤んぼうのお化けにはどんどん新しい思い出をつくらせようとして、東京じゅうのいろんな場所で地上に呼びおろしているのじゃない?

Dの優しさは、このような贖罪意識による自己犠牲からもたらされたものである。その対象もアグイーに限定されてはいなくて、無力で傷ついた瞬間のぼくへも及ぶ、限りない優しさなのである。ただし、Dは現在のこの時間を生きることを拒否し、この愛人ともいかなる関係を持つことを拒否している人間だから、Dにはいっさいの地上的ドラマは起こり得ないのである。Dの内面世界は外界からの一切の手がかりのない絶対の世界であり、それは抒情詩の完結性に酷似しているのである。ぼくはDの付添であり、語り手であり、畢竟傍観者にすぎない。したがってDの世界は動かない。大江の創りあげたこの純粋空間では、Dの自己抹殺の意志だけが自己運動していくしかないのである。Dはだれとも出合うことなく、自分の内部の暗い穴ぼこを何の手がかりもなく堕ちていくほかないのである。異常児の父となった衝撃の最初の反応を示した作品で、嬰児殺しをモチーフとして、贖罪(しょくざい)意識という錘(おも)りをつけて一直線に落下していく失墜感を描くことの中に、多分大江文学の原質が隠されているのである。大江はその失墜を極めて美的にユーモラスに描いてみせるのである。例えばアイヴォリイ・ホワイトに輝く空といった美しいイメージ、例えば、その赤んぼうが生れてから死ぬまでに、いちどだけアグイーといったからアグイーと命名したといった具合のユーモアが、至るところにちりばめられているのである。

 その年のクリスマス・イブの日、港に入っている筈のチリーの貨物船を見るため、銀座から東京へ向かって歩いていた。そのとき、アグイーがDの脇に降りてきた。やがて彼らは広い交叉点にさしかかったとき、信号が変わった。Dは立ちどまった。トラックの群が疾走していた。その時、不意にDが叫び声をあげ、なにものかを救助するように両手を前にさし出してトラックのあいだに跳びだし、瞬時にはじきとばされる。その夜、病院で、瀕死のDに向かってぼくは呼びかける。<あなたは自殺するためにだけぼくを傭ったんですか? アグイーなどあれはカムフラージュだったんじゃありませんか?> そのときDの黒く小さくなった顔に<人を嘲弄するような、また好意にみちた悪戯をするときのような微笑>が浮かびあがるのである。Dのような自己処罰を生きた人間にとって、その死は、自殺であれ、事故死であれ、たいした相違はないわけだ。こうして大江は嬰児殺しが死へ行きつくしかない必然のコースを確認したのである。自己抹殺の錘鉛(すいえん)を下ろして、自分の生の基盤を確認するのである。こうして退路を断ち切ることで大江文学の反転がはじまるのである。次作『個人的体験』(昭39)において、同じテーマを火見子という救済者を設定し、異常を持つ嬰児を育てる決意をすることで、失墜から浮上へ、自己抹殺から再生へのドラマを描いてみせるのである。

 Dの死後十年たった今年の春、ぼくは街を歩いていて、不意になんの理由もなく怯えた子供らの一群から石礫を投げられた。拳ほどの礫がぼくの右眼にあたり、ぼくはそのショッで片膝をついたとき、ぼくのすぐ背後から、カンガルーほどの大きさの懐かしいひとつの存在が空に向かってとび立つのを感じ、ぼくは思いがけなく、さようならアグイーと心の中でつぶやくのである。ぼくは子供らに傷つけられてまさに無償の犠牲をはらったとき、一瞬だけにしても、ぼくは空から降りてきた存在を感じとる力を与えられたのだ。こうしてぼくはDと同質の視力を獲得し、Dの物語を語る資格を入手したのである。万葉の詩人は、その神話的想像力によって現実の彼方を透視し得たのであるが、大江の創り出した世界の住人たちは、あるいは自分の子供を殺すこと、あるいは自分の眼をつぶすこと、というような代償を支払うことによってはじめて、自分の内部の薄暗がりを透視する力を得るのである。そこに現代における想像力の困難がある。人間内部の薄暗がりを透視するためには、それをアィヴォリイ・ホワイトに輝く空間に転換し、その空間にこの地上で喪ったものがことごとく顕在化されるしかけを持つメタフィジックな反世界を創出せねばならないのである。<浮游しているものは、しだいに、加速度的にどんどんふえるよ。ぼくはぼくの赤んぼうの事件以来、その増殖をくいとめるために、この地上の現実的な≪時間≫を生きるのを止めた> このようなメカニズムは悲劇のメカニズムにほかならない。生きるとは何ものかを喪い続けることであり、喪ったものは空に浮游する以上、人間は生きることを止めるほかないという人間存在の悲劇的ありようを大江は明確に取り出してみせたのである。ここには人間の生存に対するきびしい認識が静謐(せいひつ)な祈りにつつまれて不思議な小説世界として提示されているのである。大江はこの『空の怪物アグイー』の自己否定をくぐることで、知恵遅れのわが子と共生していく文学の道を模索しはじめるのである。この短編で開幕した人間内面の暗闇の劇は、知恵遅れの子供を中心に据えて、『個人的体験』から『万延元年のフットボール』(昭42)、『洪水はわが魂に及び』(昭48)を経て『ピンチランナー調書』(昭51)に至る長編小説において、一つ一つ位相の異なる深刻なドラマとして持続して追求されるのである。幻視異聞に根ざした大江固有の文学方法によって、『空の怪物アグイー』で開始した<社会に背を向けて、自分自身の内部の暗闇に竪穴を掘る>(『壊れものとしての人間』昭45)という孤独な文学作業は、それら長編の中で、<その竪穴を掘りすすめた向こうには、社会が実在しているのだと、したがって自分は狂気にいたる孤独の竪穴を掘っているのではなく、横穴を掘りすすめて社会にいたろうとしている>という文学をめざしての大江の苦闘は続くのである。そして、自分自身の内部の暗闇から社会へのいくつもの通路をさぐり当て、ついに『同時代ゲーム』(昭54)という全体小説へ至りつく大江の文学コースの中で、『空の怪物アグイー』はささやかではあるが、その最初の指標を示した作品としての記念すべき位置を占めているのである。



大江健三郎(昭10―)

 愛媛県喜多郡大源村に生まれる。この森の奥の谷間の村が大江文学の原郷であり、多くの作品の舞台となる。彼は幾度か自己の文学の到達点を破壊して新しい創造への冒険に挑んだ。しかし核時代に対峙する障害児という形で顕現する構図が彼の文学を貫通している。


初出 『貫生』第5号 1982年2月
単行本 『作家 その原風景 短篇小説さすらい抄』 1985年3月


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作家その原風景―評論


1.羅生門の闇
芥川龍之介
『羅生門』

2.花に嵐
井伏鱒二
『屋根の上のサワン』

3.病者のダンディズム
吉行淳之介
『漂う部屋』

4.狐の化生
石牟礼道子
『椿の海の記』

5.さらば司馬遷
武田泰淳
『蝮のすえ』

6.幻視異聞
大江健三郎
『空の怪物アグイー』

7.寓話の復権
阿部公房
『デンドロカカリヤ』

8.絶対の孤独
坂口安吾
『桜の森の満開の下』

9.鬼の歌
石川淳
『紫苑物語』

10.物語の闇
中上健次
『化粧』

11.飢えのユートピア
深沢七郎
『楢山節考』

12.仮象への旅
梶井基次郎
『闇の絵巻』

13.古譚の水脈
古井由吉
『杳子』

14.非在への反歌
伊藤静雄
『わがひとに与ふる哀歌』

15.対句の美学
中島敦
『山月記』

16.狼の系譜
佐々木マキの絵本
『やっぱり おおかみ』

旧稿 有島武郎論
『或る女』を中心に


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