鬼の歌 石川淳『紫苑物語』
石川淳の文学は歌の拒否からはじまる。散文を唯一の方法として小説世界へ乗り出してきたこの作家にとって歌は常に克服すべき敵であった。これほど詩をその対極として意識した散文家は他にいないのではなかろうか。昭和十年、三十六歳ではじまり現在に至るその長い文学的生涯は、散文と詩との角逐によって織りなされているといっても過言ではない。それでは石川淳の文学における散文と詩のドラマはどのようにはじまったのか。まず歌とは何だったのか。
その処女作『佳人』(昭16)の主人公<わたし>は自らに歌を禁じて次のように言う。
わたしはどこを叩いても決して反響を発しない空洞のごとくなるためにわが身に於て一切の詠嘆を禁遏(きんあつ)しようと努め、こうしてやがて消えうせるための鍛練にかかった。
歌とはまず<詠嘆>であり、<詠嘆>とは叩いたときに起る<反響>のごときものであった。つまり歌は現実の生身の感動の直接的表現であり、詠嘆の抒情詩であった。そこには精神というものの介在する余地がなかった。すでに人間を精神の運動として捉え、その運動を散文で追跡しようとしていた石川淳には、詠嘆は精神の停滞に他ならず、歌は停滞の美化以外の何物でもなかった。こうして歌は拒否されるのだが、それにしても歌を発する母体たる現身(うつしみ)とは何であろうか。『佳人』は<わたしはわたしとペンの尖(さき)が堰(せき)の口でもあるかのようにわたしという溜り水が際限なくあふれ出そうな>現身の自己告白の衝動から書きはじめられているが、その<わたし>はどこといってつかみどころのない風景の中で<地の臍(へそ)>つまり展望の中心を探す人物として語られている。自己告白がこのように象徴的形態をとることの中に、現身の自己への深い不信、嫌悪の情が読みとれよう。私小説家たちを捉えていた現身への信頼はすでに崩壊していたのである。しかも、もともと<地の臍>なんてものがあろうはずはなく、ある日発見した<地の臍>はその不在の確認にすぎなかった。つまり、自己の生存の根拠の発見はその不在の確認でしかなかったのである。かかる背理を通して自己に到達したとき、現身というものはその背理のヤスリできれいに削り取られるのではなかろうか。こうして歌の母胎は消滅し散文が作品を制覇したかに見える。
実際散文は歌を根絶寸前のところまで追いこんだかに見えた。それは俗から聖へというコースを追いつめたのである。図式化して示せば<地の臍>→<虚妄>→<空洞>→<死>とでもなろうか、自己消滅のコースをひた走るのである。そして<空洞こそわが念ずる神の姿となってあらわれ>と<空洞>に自分の<聖痕>を見るのである。こうして<わたし>は<聖>なる<死>への道行きをひたすら急ぐことになるのだが、同時に<わたし>は<死>へ向っての刻々の歩みを<明らかな鏡>の中に見とどけなければならない観察者でもある。明鏡とは明らかな精神であり、散文の機能である。意識の消滅である死を意識によって見とどけること、明晰な精神による自己の死の確認こそ散文の勝利でなくて何であろう。ところが<聖>主導で展開してきた作品が突如ここへ来て<俗>の反乱によってパロディ仕立てに変調する。<わたし>の生を粉砕するはずの列車は来らず、そのうえ明鏡であるはずの精神までも混濁して、<俗>の汚辱に投げ返されたあげく、あれほど自らに禁じていた詠嘆が歌となってほとばしり出るのである。
歩く一夜芙蓉の花に白みけり
死への彷徨が<歩く一夜>と美化され、生への生還が<芙蓉の花>に美化される。散文(明鏡)は刻々に変化する対象を運動として捕捉する方法だとすれば、歌は一瞬の姿において対象を絶対化する方法である。かくて、「佳人」は生を拒否せんとして生へ引き戻され、歌を拒否せんとして歌に復讐される敗北譚となるのである。しかし作者は作品の結末部に次のようなマニフェスト(宣言)を書きつける。つまり石川淳の「文学宣言」であり、自分の文学の基本的立場の樹立宣言であった。
わたしの樽の中には此世の醜悪に満ちた毒々しいはなしがだぶだぶしているのだが、もしへたな自然主義の小説まがいに人生の醜悪の上に薄い紙を敷いて、それを絵筆でなぞって、あとは涼しい顔の昼寝でもしていようというだけならば、わたしはいっそペンなど叩き折って市井の無頼に伍してどぶろくでも飲むほうがましであろう。わたしの努力は、この醜悪を奇異にまで高めることだ。
自己の生存の拠点を探しつづけて、ついに空虚からさえ拒まれて四散する自己に行きついた石川淳には、醜悪な現身の再現に安住する自然主義文学の写実リアリズムは文学の敵、愚劣そのものとしか見えなかった。それは素朴な心情の抒情詩である点で歌以外の何物であろう。小説とは、<醜悪を奇異にまで高める>ことであり、それは自分をともすれば<牧羊神の歌>に引き戻す自分の中の<牧羊神>つまり歌の宿命との格闘を通してしか達成できないことを確認するのである。
自分の歌と格闘する人間にとって時代の歌ほど始末の悪いものはない。時代がその醜悪な地声で恥知らずな歌をうたうとき、どうしてそれに唱和したりできようか。自分の内部の歌に散文で対抗した作家は、この度の外部の歌にも散文で立ち向かう以外に方法はなかった。昭和十年代に入りますます声高に唱和されるファシズムの歌、巷にあふれる戦争賛美の軍歌を諷して『マルスの歌』(昭13)を書いた。ファシズムの圧政を<マルス>というローマ神話の軍神の神話的象徴の中に封じこめ、その唱和を強要する歌の醜悪さをあばいて諷刺した。この歌の拒否に対して時代はその作品の掲載誌の発売禁止をもって報いた。
以後ますます風圧の強まるファシズムの嵐の中を石川淳がどう生きたかを推測する手がかりになる文章を二つ挙げておく。
わたしはいくさのあいだ、国外脱出がむつかしいので、しばらく国産品で生活をまかなって、江戸に留学することにした。(『夷斎俚言』昭26)
ただ、おりにふれて、わたしは天明ぶりを我流にくずしたような、へたな狂歌をつくってみるということをした。ひとには見せないそのわざくれが、いくさのあいだ、わたしの唯一の文学的事業であった。(『無尽燈』昭21)
戦争期の言論抑圧による散文の危機の時代に石川淳は江戸戯作、とくに天明期の狂歌の世界にひたって過ごしたという。散文から狂歌への留学は一種の自己韜晦(とうかい)であった。狂歌は歌ではなく歌のパロディである。狂歌において石川淳は歌を内部から解体し乗りこえる足場を築いた。『曽呂利咄』(昭13)は石川淳における狂歌のありようの一端を示している。
石川淳が戦争期身につけた狂歌から学んだパロディは戦後の小説の中で開花する。戦後の解放の歌を諷した聖書のパロディの作品群がある。『戦跡のイ工ス』(昭21)『燃える棘』(昭21)『雪のイブ』(昭22)『処女懐胎』(昭22)『最後の晩餐』(昭23)と聖書の宗教的象徴を用いて戦後民主主義を諷刺した。しかし民主主義の歌のやんだ昭和三十年代に入ると、もはやそのようなパロディは書けなくなってしまう。そしてもはやいかなる現実への対応もない純粋な小説的世界の中で自己を掘り下げていく作品『紫苑物語』(昭31)が書かれることになる。
紫苑物語』も歌の否定から物語がはじまる。主人公<宗頼>は代々勅撰和歌集の撰者を出す歌の家に生まれた。彼の体内には濃い歌の血が流れていた。自分の歌の宿命に対するたたかいがこの作品のテーマである。宗頼は七歳にして歌の師でもある父に背いて自分の中に鳴りひびいている歌の衝動を和歌という定型抒情詩に盛ることを自らに禁じた。そして歌の家には無用の道具である弓を父の嫌悪する無頼の伯父<弓麻呂>に倣った。父は権門の娘<うつろ姫>を与えて色の道によって宗頼を引き戻そうとしたが果たせなかった。ついに十八歳のとき、宗頼は遠い国の守に任ぜられたが、それは体のいい追放であった。しかしその遠い国には涯のない山野があり、捕れども尽きぬ鳥けものがいて、宗頼の弓を待っていた。不思議にも宗頼の射た矢はたしかに百発百中するのだが、矢は獲物もろとも消えうせて、ついに一度も獲物を射とめることがなかった。
あらたに見つけた自然の豊饒と荒涼とのさかいに身を置いて、手の中の弓はじつはわすれられたにひとしく、このときおのずから発したものは矢ではなくて歌、ただしすでに禁じていた長歌短歌のたぐいとはちがうもの、まだいかなる方式も定形も知らないような歌が体内に湧きひろがり、音にもたたぬ声となって宙にあふれ、そのききとりがたい声は野に山に水に空に舞いくるった。狩に憑かれたということは、すなわち歌に酔ったということにほかならなかった。
幼ない日から抑圧され続けた歌は弓において復讐する。歌は長く体内に潜んで次第に純化され、弓を自己表出の手段として噴出する。弓が歌の手段となるとき、弓は弓としての機能を果たすことができない。宗頼はこのような自己の内面の劇を知ることがない。それゆえに歌はついに何物にも規制されることなく肥大化して世界が心情の歌によって満たされるに到る。このように心情が絶対化されるとき精神の運動もまた停滞せざるを得ないのである。弓がその本来を取り戻すには、弓が歌の速度を追い抜かなければならない。ついにその日が来た。ある日、宗頼の矢は小狐の背を射抜き、それを持ち帰ろうと駆け寄った家来二人の背をも射抜いた。
かの谷川のほとり、草むらのかげに、小狐の黄の影がさっとかすめたとき、そこに歌声のおこるすきまもなく、とっさに手はたしかに弓をとり、弓は手に応じて矢を発した。つづいて、二人の雑色を射たおしたときには、宗頼の目にあきらかに見えたのは二箇の男の背であって、他のなにものでもなかった。
これが宗頼における弓の開眼であり、散文成立の契機である。矢が歌を追い抜いたのであり、散文が物そのものの速度に追いつき、心情の介在する余地なく対象を捕捉したのである。矢はその本来の姿をあらわし、敵を倒したのである。矢によって歌が否定されたとき、古い自己がもう一人の自己に追い抜かれ、新しい自己が誕生するのである。こうしてめざめた宗頼の精神の新たな疾走がはじまるのである。
この作品は都の歌の家に生まれた宗頼の自足できない精神の無限の自己否定の運動を追跡した作品である。宗頼には踏みこえなければならない幾人かの敵がいた。まず歌の道を代表する父、これは幼い日にすでに踏みこえ都を出立する日矢を射かけてその烏帽子を射落として別れた。さて、矢の開眼の後、妻<うつろ姫>との対峙、この名族の血をうけ官能の快楽しか知らない女のはだか身は一瞬宗頼をたじろがせはするが、これもわけなく一蹴して忘れた。次に、かの背を射抜かれた小狐は復讐のために<千草>と名のる美女と化して宗頼の前に現われる。千草はおのれの幻術によって知り得た数々の秘事を教えて宗頼を殺戮に駆りたてようとする。宗頼の失脚を企んでである。ところがまたたく間に宗頼の矢は千草の告げる範囲を超えはじめる。つまり無実の人々を殺しはじめるのである。宗頼にとって守の地位のごときは眼中になく、殺人そのものに熱中しはじめるのである。また千草はうつろ姫においてきたならしいとのみ思わせた男女のまじわりの美しさを宗頼に教えた。干草は夜ごとにいどんで宗頼の精気を吸い尽くそうとするのだが、精気を失うのはかえって千草の方であった。こうして宗頼の精神の速度は干草の妖術を追い抜いてしまうのである。やがて千草はその正体を見破られて宗頼に隷属するに至るのである。
さてもう一人、弓の師である弓麻呂はどうしても倒さねばならぬ敵である。彼を倒さねば弓において第一人者になれないからである。弓麻呂の矢は人殺しに徹した残忍な矢である。それは、<知の矢><殺の矢>を一すじに射る無敵の矢である。<殺の矢>を超える矢を編み出さんとして宗頼は自らを<魔神>に擬して<魔の矢>を生み出す。そして<知の矢><殺の矢><魔の矢>の三本の矢を一すじに射かけることでやっと弓麻呂を倒すことができたのである。こうして次々と敵を超えて進むとき、算によって守の地位を伺う目代の<藤内>のごときはもはや一瞥にも価しない。宗頼の目前にはそれらすべての敵の背後に高々と聳え立つ、かの岩山に住む<平太>こそが宿敵として現われるのである。
かつて宗頼が初めて岩山へ登った日、岩山の向こうには一つの桃源郷が広がっていた。その山頂にはひとりの男がいて名を平太と言い、岩山の岩肌に仏を彫っていた。その男は穏やかな外貌の下に凛乎たる威厳とある殺気さえ秘めて宗頼を圧倒した。宗頼は出合った日から彼の中にほんとうの敵を見ていた。今までの敵は平太に至るための過程にすぎなかった。宗頼は平太の対極を生きざるを得ない自分の宿命に遭遇したのである。宗頼は平太と遇った後殺人魔と化す理由はそこにある。平太が自分の中の殺意を制禦して平和愛好者になるからには宗頼は殺人魔となって数限りない殺戮を重ねなければならぬ。
平太の植えている<わすれ草>に対抗して死者を記念して植えさせた<わすれな草>である<紫苑>は、死者の数と共に増え続け、死者の血を吸って美しく咲く。そして殺人の現場のあのなまぐさい血を拭い去って殺人を一つの精神の劇の象徴と化す。かくて殺人は宗頼を<魔神>、<荒ぶる神>へと高める無償の行為と化すのである。この作品は何よりも精神の劇であり、あの俗なる現身というものはきれいに払拭されているのである。人間の精神の極限まで極め尽くし、その根源に至ろうという衝動に支えられている。平太はあなたにとって何者かという千草の問いに答えて、次のようにいう。
「わしでもあり、わしではない。ここにわしがいる。そして岩山のいただきに赤の他人の見しらぬ男がいて、そやつがまた遠いわしのごとくである。ともかく、わしは一刻もはやく岩山のいただきに行きつかなくてはならぬ。そうでなくてはならぬ。そうでなくては、わしというものがこの世にありうる力はうまれない。すでに、わしの矢はかなたに翔ろうとしている。
こうして作品は平太と宗頼の対決へ行きつくのである。平太は宗頼の、本来あるべきもうひとりの自己である。宗頼はすでに人がそれぞれ背負うべき宿命としての、自分の背にある<悪運の雲>を知っている。平太は理想追求者であるなら、宗頼はその破壊者でなければならぬ。平太が<里のやすらぎを護る>仏を彫るなら、宗頼は冷ややかに領民を殺害しなければならぬ。かくて石川淳は人間の中に潜む根源的な二つのベクトルを掘り出し、その対立を人間の限界をこえて追求する。そしてついにそれを<ほとけ>と<魔神>という象徴の位相において捕捉する。『紫苑物語』はそういう人間の深奥に根ざす精神の劇の骨格をあざやかに、リアリズム文学とは異質の時空に示してみせた作品である。
宗頼はさまざまな敵を踏みこえて真の敵であるもう一人の自分に行きつく。そして<悪運>という自分の宿命に根ざした悪への衝動によって自分の理想を粉砕しなければならない。宗頼は弓と化した千草を携え、再び岩山に登る。そしてあまたある仏の中から平太の彫った仏を射なければならぬ。宗頼は岩場を踏みしめて弓を引きしぼり、気合いみちきって三本の矢を一すじに射る。矢はすでに人を殺すためのものではなく自分を射るためのものである。第一、第二の矢は岩に砕け散るが、第三の<魔の矢>は見事岩の仏の頭を削り射落として月の高さに遠く消える。そのとき宗頼の踏みしめていた岩もまた裂け崩れて宗頼は谷底深く落ちていく。仏を射抜くことは平太を射抜くことであり、平太を射抜くことは自分を射抜くことである。平太もまたその夜息絶えてしまう。その死顔は<見まごうまでに宗頼の顔にさも似ていた>という。また宗頼が谷底に落ちたとき、宗頼の手から放たれた弓(千草)は狐火となってかの守の館へ飛び、そこで守の地位を奪おうと企んでいた藤内一味を焼き滅ぼしてしまったという。
その後、岩肌の仏像の中に一体首の欠け落ちたものがあった。その首は、
かたち尋常ならず、目をむき、牙をならし、炎を吐きかけ、あくまで荒れくるって悪鬼というものか
といった形相をしていたが、この首をもちあげて元の位置に載せると、
相好具足、ずいぶん頼みになりそうな大悲の慈顔
となる。しかし夜になると首はおのずから落ち、元へかえしてもまた落ち、ついに落ちたところから動かないようになった。平太と宗頼の対立は人間の位相をこえて菩薩と魔神となってあらわれ、両者の破滅後、<慈顔>と<悪鬼>の相にひきつがれ、その二相の往還の中に人間の精神の根源の相がたどられる。そしてついに人間精神の究極の姿は慈顔ではなく悪鬼の相をしていたのである。作品の最後の部分を引用する。
月あきらかな夜、空には光がみち、谷の闇にとざされるころ、その境の崖のはなに、声がきこえた。なにをいうとも知れず、はじめはかすかな声であったが、木魂がそれに応え、あちこちに呼びかわすにつれて、声は大きく、はてしなくひろがって行き、谷に鳴り、崖に鳴り、いただきにひびき、ごうごうと宙にとどろき、岩山を越えてかなたの里までとどろきわたった。とどろく音は紫苑の一むらのほとりにもおよんだ。岩山に月あきらかな夜には、ここは風雨であった。風に猛り、雨にしめり、音はおそろしくまたかなしく、緩急のしらべおのずからととのってそこに歌を発した。なにをうたうとも知れず、余韻は夜もすがらひとのこころを打った。ひとは鬼の歌がきこえるといった。
石川淳における歌と散文の長い角逐のはてに一つの決着がついたのである。<緩急のしらべおのずからととのって、そこに歌を発した>とは石川淳の文章論である。彼の散文はいつの間にか不思議なリズムを獲得して歌になる。この見事な文体の秘密はどこからきたのか。いったい歌はどこから湧きおこるのか。『佳人』の素朴な詠嘆の歌の否定から出発した石川淳の文学は『紫苑物語』の鬼の歌に行きついたのである。詩はいつもその根底に<聖>なるものへの憧憬、この世ならぬ彼岸性への祈念を秘めているものである。かくて彼の文学を貫通する二つのもの、聖と詩がついに鬼の歌において出合うのである。聖は地獄に所属する鬼という象徴において捕捉される。そして鬼の歌とはすべてを否定する破壊の衝動がかなでる殺意の歌なのである。その無限否定の衝動たる殺意こそ石川淳の詩の源泉であり、精神の運動の行きくれる場所であり、すべてが無化される虚無の深淵である。人間世界のはるかな彼方、神や仏さえも消滅してしまった地獄のはてから発する無限否定の歌は、散文という抑制装置で抑えても抑えても歌となって行間からほとばしり出るのである。詩が聖に追いつき、散文が詩の源泉をつきとめたのである。こうして三位一体の文体が成立する。いや、散文はもともと俗に所属するものであるから、聖と俗、詩と散文という相矛盾する要素を渾然と統合した希有の文体が誕生したのである。石川淳の文学の新たな地平が開かれたのである。<なにをうたうとも知れず、余韻は夜もすがらひとのこころを打つ>鬼の歌がさまざまに変奏されて『八幡縁起』(昭33)をはじめとする現代文学の新しい時空に挑む異色の作品群を生み出していくのである。
石川淳(明32―昭62)
東京浅草に生まれる。銀行家斯波氏の末子で石川氏を継ぐ。石川氏は代々の幕臣で六歳より漢文の素読を受けた。彼は和漢洋の該博な知識の中に自己を韜晦し、生身の自己を語ることはない。作品は精神の運動の軌跡であり、観念の壮大な劇と化す。
初出 | 『貫生』第8号 | 1983年7月 |
単行本 | 『作家 その原風景 短篇小説さすらい抄』 | 1985年3月 |
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