飢えのユートピア 深沢七郎『楢山節考』
深沢七郎が『風流夢譚』(昭35)を書いて右翼に追われたとき、日頃、表現の自由を標榜していた知識人たちは誰も援護の手をさしのべなかった。そういうとき、日本の知識人の懐の浅さ、その酷薄さがあらわになる。もちろん『風流夢譚』の中で左翼を<左欲>と書いた深沢は彼らに何の幻想も持っていなかった。深沢はその長い逃亡のはてに、まるで死地を求めるように脅迫者への親近感を抱いて一状の脅迫状の発信地北海道へ渡った。そこでたまたま訪れた北大のクラーク像を前にして次のように言う。
ツマラナイことを言ったものですねえ、クラーク博士は、ココロザシ大ナレなんて、そんなことを言う人は悪魔のような人じゃないですか。普通の社会人になれというならいいけど、それじゃァ、全世界の青年がみんな偉くなれと押売りみたいじゃァないですか。そんなこたァ出来ゃしませんよ。そんな、ホカの人を押しのけて満員電車に乗り込むようなことを。(『流浪の手記』昭38)
この日本の近代的自我の象徴的拠点であるクラーク博士の中に、深沢は<悪魔のような>上昇志向を嗅ぎ取っている。彼は知識人のエリート性は<ホカの人を押しのけて満員電車に乗り込む>エゴイズムに他ならないとみている。そこに深沢の上昇志向を核とする近代的自我に対する徹底した拒否が読みとれよう。明治以来ひたすら近代的自我の確立を追求してきた日本の近代文学の伝統とは無縁の場所から深沢の文学は出発するのである。それが、どんな異相を呈していたかは『楢山節考』(昭31)が発表されたときの文壇の驚倒ぶりにあらわれている。文壇の長老、正宗白鳥は次のように書いた。
私はこの作品を面白ずくや娯楽として読んだのじゃない。人生永遠の書の一つとして心読したつもりである。
深沢はどのような場所でこのように文壇の虚を衝く異相の文学を育てたのであろうか。
深沢は大正三年、<西も東も伝説に囲まれている>山梨県石和(いさわ)に生まれた。彼は幼時から人間好きだった。彼は村においてはエリートである中学生の中ではほとんど例外的に農村の青年たち<おわけえ衆>と交わり、彼らに混って娘のいる家々へ毎晩のように押しかけて、お茶をよばれ、世間話をして過ごしたのである。お茶をよばれに行く家は<庶民の家>で決して<お大尽(でえじん)の家>ではなかったことを後に回想している。すでに彼の中に反エリートの性向、庶民志向があらわれている。この石和の「伝説」と「世間話」が彼の文学の土壌となるのである。同時にこのお茶呼ばれの歴訪が彼の後年の放浪癖を育てたのである。また深沢は病弱であった。中学を卒業して一度と三十二歳でもう一度、<肋膜炎>(結核)を病んだ。二十歳から三十六歳までの十六年間病人だった。そのため彼は一生定職というものに就くことがなかった。この病人時代を通して<世間から離れた人生>を生きて深沢は虚無に到りつくのである。
生まれたことなどタイしたことではないと思うのである。だから、死んでゆくこともタイしたことではないと思う。生まれて、死んで、その間をすごすことも私はタイしたことではなかったのである。(『自伝ところどころ』 昭41)
長い病人時代に、自分の死との対話を通して彼は死の向こう側へ通り抜けたのである。死の向う側からこの世を見返すとき、彼の目からいっさいの物語的呪縛のうろこが落ちるのである。それがどんな視力であるかを示す一例証をあげておく。『白鳥の死』(昭38)の中の一節である。
「正宗白鳥が死んだよ」
と私はそのひとに言った。昨日まで「正宗先生」と言っていたのだが、「センセイ」とか、「サマ」などという敬称は、いらないのだ。どんな賢い者でも、どんな阿呆の者でも、どんな美しい者も醜い者でも、どんな地位があっても、権力があっても死ねば誰でも同じ物になるのだから私はほっとするのである。そうして、死者には敬称など関係のないことなのだ。敬称は生きているうちにその人の必要なものなのだが、死骸は、もう、なにもいらないのである。さっき、正宗白鳥が死んで、私はそこへ行く途中なのである。
ここには人間は死後<死骸>という物体と化すという即物的人間観が語られている。そういう視力を持った人間には、生前の<正宗先生>はすでに<正宗白鳥>になるべき存在として見えていたはずだ。敬称はつまり人間を飾る虚妄の影にすぎなかったはずだ。そういう存在透視力を物語の装置として少年時代から蓄えてきた「伝説」と「世間話」の大袋から作品をつむぎはじめたのである。
書くことは少年時代から好きであった。それは自分ひとりのひそかな手慰みではあったが、それなりの習練は積んでいたのであった。こうして深沢は、一つの「棄老伝説」によりながら従来の小説や民話とは全く異質な方法で、『楢山節考』を書きあげるのである。この作品が依拠した「棄老伝説」について少しばかり考察しておくと、柳田国男の『遠野物語』に次のような話が採録されている。
遠野の近隣には幾つか、おなじダンノハナという地名がある。その近傍にはこれと相対してかならず蓮台野という地がある。昔は六十をこえた老人はすべてこの蓮台野に追いやる風習があった。捨てられた老人は徒らに死んでしまうこともならず、日中は里へおりて農作して口を糊した。そのためにいまもその近隣では朝に野らにでるのをハカダチと云い、夕方野らからかえるのをハカアガリと云っている。
深沢が依拠したのはこのような「棄老伝説」ではあるまい。この伝説が物語化されてできた昔話(民話)「姥捨山」であろうと思われる。深沢の生国、山梨県の昔話を集めた『全国昔話資料集成・甲州昔話集』(岩崎美術社)にも「姥捨山」が三話収録されている。それら全国に遍在する昔話「姥捨山」を要約するとほぼ次のような骨子になる。
昔、ある村で、六十歳になると棄老しなければならない掟に従って、息子が親を背負って山に棄てに行くのだが、親は道々木の枝を折って道しるべを残す。それが子が家へ帰るための配慮であることを知って感激した子は親を棄てるにしのびず、連れて帰って隠して養っている。そのころたまたま隣国から難題(灰縄をなう、細い穴に糸を通す、馬の兄弟を見分けるなど)が持ち込まれるが誰も解くことができない。息子が隠して養っている親の知恵を借りて見事に解いて殿様にほめられる。しかし殿様に問いつめられて隠している親のことが露見するが、殿様は老人の知恵を再評価して以後棄老の掟が禁止され、老人が大切にされるようになった。めでたし、めでたしという話である。
この昔話は棄老を悪とする前提の上に組み立てられている。それゆえ最後に棄老の禁止という救いが用意されるのである。つまりこの昔話は親孝行というテーマで語られていて、「棄老伝説」の根底にあった食料問題が忘れられている。棄老風習を食糧問題(老人の労働力)の視点から容認する伝説に対して、昔話はそれを残酷なものとして否認し、知恵という視点から老人を救済しようとする。昔話の歴史は、残酷なものの排除の歴史であり、救済という名のヒューマニズムの拡大の歴史である。いわゆる「民話の再話」はその線上の出来事であった。木下順二の民話劇はその傾向を極点までつきつめたヒューマニズム劇であった。深沢の作品はそういう民話の方向に逆行し、木下順二の対極点をめざす。深沢にとってヒューマニズムほどうさんくさいものはなかった。一人の人間の生命を地球より重いとみるヒューマニズムほど理不尽なものはなかった。彼は人間を自然の中の生物的次元でみていた。死を恐れるのは人間だけであり、深沢が死の恐怖をこえたとき、彼はどこか脱人間的感性を身につけた生物的存在と化したのである。それゆえ彼は文明の虚偽には本能的に敏感であった。彼は棄老習俗を悪とは見ていない。むしろ、人口問題に対する一つの合理的な処方箋として捉えている。深沢は日本の人口問題について
日本は徳川時代の中期頃、人口に対する土地の限界はきまっていて、二千五百万人ぐらいしか住めない。
という原則を立てて、今の一億の人口は
二個の植木鉢に十本植えることと同じである。水も足りないし空気が悪くなるのは当り前で、人間は豆や金魚とちがうと思っている人があるなら滑稽である。(『子供を二人も持つ奴は悪い奴だと思う』昭41)
と考えている。『楢山節考』は明らかに彼の人口観の上に設定されている。一定の食糧しかない村では人口制限をするのは当然のことではないか。『楢山節考』では棄老を、『東北の神武たち』(昭32)では出産制限(結婚制限)を描いている。棄老を悪と決めつけて疑わないヒューマニズムに対して深沢は人間を自然に規制された<豆や金魚>と同じ生物的存在として捉えている。それゆえ、自然的条件に起因する棄老は運命として受容されるのである。深沢が『楢山節考』で描いてみせたのは、棄老習俗をその内部に抱いている共同体の復元である。共同体からの逃亡にはじまる近代的自我は、その根なし草的抽象化のはてに、結局エリートとして庶民の敵対者、抑圧者と化したのではないか。共同体から切り離された知識人は上昇志向への歯止めを持たなかった。深沢の知識人への不信はそこに根ざしていた。彼は人間の根づく土壌を共同体に求めた。鮮明な輪郭を持った人間を再建するためには、まずその拠って立つ基盤を復元しなければならない。これが深沢の文学の出発点であった。
『楢山節考』を書くにあたって、深沢は共同体の創世記から書きはじめる。作者はまず村に名を与え、家に名を与える。家号はそれぞれの起源伝説を持っている。たとえば主人公<おりん>の家は、
家の前に大きい欅(けやき)の根の切株があって、切口が板のように平たいので子供達や通る人達が腰をかけては重宝がっていた。
だから村人はおりんの家のことを<根っこ>と呼ぶのである。深沢は登場人物に決して正式な氏名(フルネーム)を与えたりはしない。深沢的世界はアダ名でなければ通行許可のでない庶民の世界である。深沢的共同体は国家と相容れないもう一つの世界である。そこには決してあの昔話の殿様は登場しないのである。その代わりに棄老の地<楢山>には神が存在するのである。
楢山には神が住んでいるのであった。楢山へ行った人は皆、神を見てきたのであるから誰も疑う者などなかった。現実に神が存在するというのであるから、他の行事より特別に力を入れる祭りをしたのである。
お盆の前夜の楢山祭りは、初秋の山の産物の外、最も貴重な食糧である白米を炊いて、それを<白萩さま>と呼んで食べ、どぶろくを作って飲む祭りである。この飢えの村では美食(飽食)が祭りなのである。
年に一度のお山のまつり
ねじりはちまきでまんま食べろ
と歌われるのである。祭りのハレが美食でしかないところに、日常のケの食事がどんなものであったかが示されている。またそれはこの神の性格をも示しているだろう。食糧問題がほとんど唯一の問題である共同体において、その飢えへの怯えを背景にして神は出現するのである。それゆえ、楢山まつりの祝(はふ)りが楢山まいり(棄老)の葬(はふ)りの予告となるのである。
楢山祭りが三度来りゃよ
栗の種から花が咲く
この楢山祭りの歌は老人に七十になれば楢山まいりに行くことを知らせる予告の歌となるのである。『楢山節考』はこのように一種の歌物語である。しかし、それは和歌を核とする王朝の歌物語には似ないで、その民謡を核とする物語は古代日本人の原姿を伝える風土記的相貌を帯びて、自作の民謡を奏でつつ放浪するギターの名手深沢は古風な吟遊詩人のおもかげをうけついでいる。ギターについての少年時代の思い出に
私が二階でギターを弾いていると、表の通りの軒下にたたずんで聞いている人がよくあった。いつだったか、外から父が帰ってきて、家の前に大勢集っているので(ナニゴトが起こったか?)と驚いて家の中に飛び込んだこともあった程だった。みんな通りがかりの人達で、立ち止まったり、ただずんだりしてしまうのだが、私がびっくりしたことは、その人達の中に老人も多いことだった。(『自伝ところどころ』)
ここに後年の庶民の中の吟遊詩人といったこの作家のありようが示されていた。そのギターが民謡を奏で、民話や世間話を語る深沢文学へ変奏してゆくとき、そこには口承文芸の伝統を引き継ぐ異相の近代小説が誕生するのである。その故郷に根ざす口承性において、例えば後の中上健次の物語に遠くこだましていた。こうして深沢は歌が人間の生きる指標をさし示すような共同体を描き出すのである。
『楢山節考』で深沢は食糧の乏しい飢えの村でひたすら棄老を生きる<おりん>という老婆を創り出した。おりんは今年六十九歳で来年早々には姥捨山である<楢山>へ行かなくてはならない。おりんはずっと以前からその心積りをして、準備万端整っているのだが、唯一の心残りは去年寡夫になった息子<辰平>の後妻がまだ決まっていないことだけであった。それも運よく隣村から三日前に亭主の葬式がすんだばかりの後家が一人できたので、辰平の後添えにという話がきた。それでは四十九日が済んだらすぐと話はその場でまとまった。寡夫と後家は年さえ合えばそれでよいのである。結婚など人生の些事にすぎない。例えばその隣り村の後家<玉やん>は夫の四十九目もまだ終わらない祭りの日にやってくる。
うちの方でごっそうを食うより、こっちへ来て食った方がいいとみんなが云うもんだから、今朝めし前に来たでよ。
結婚の比重はついに一食の重さに及ばないかのごとくである。そのうえ、おりんの家には誰も夢にも考えていなかった孫<けさ吉>の嫁<松やん>まで大きい腹をしてやって来たのである。おりんはその松やんの食う量の多いのを見て
けさ吉の嫁に来たのじゃねえ、あのめしの食い方の様子じゃあ、自分の家を追い出されて来たようなものだ。
と思うのである。こうして食いぶちが増えて、もし食糧の絶対量が足りなくなったらどうなるのか。その飢えへの怯えを背景にして神がある。もしほんとうに食糧が足りなくなって盗みが起こったら、どうするか。そのときは<楢山さまに謝る>という神の名による制裁が行われる。盗みが発覚するや即座に村人は跣(はだし)で喧嘩支度で現場に駆けつけねばならない。そして駆けつけた者全員でその家の全食糧を奪い取って分配してしまうのである。おりんの家で二人の家族が増えたころ、<雨屋>が楢山さまに謝ったのである。おりんが駆けつけたとき、雨屋の亨主はすでに足腰が立たないほどなぐられており、それから<家探し>されて家中の全食糧は分配に給されたのである。全食糧を奪われた雨屋の十二人の家族は夜陰にまぎれて村を立ち去って行く他ないのである。盗みをしなくてはならないところまで追いつめられた雨屋の運命は例外ではない。どの家でもぎりぎり崖っぷちに立たされていたのである。だからこそ制裁はかくも厳しいのである。食糧問題に対する無法な対処である盗みが厳しく咎められる一方で、その合法的な対処である棄老が推奨されるのである。おりんの家でも二人口が増えたので、口減らしのためおりんの山行きがにわかに急がれはじめるのである。あれほどおりんの山行きから目をそらし続けていた孝行息子の辰平もついに<おばあやん、来年は山へ行くかなあ>と言い出さざるを得ないのである。もうひとつ、孫の嫁松やんの出産の近いのもおりんに山行きを急がせる理由である。
かやの木ぎんやんひきづり女
せがれ孫からねずみっこ抱いた
と歌われたくないからである。ねずみっこというのは曽孫(ひこ)のことである。極度に食糧の不足しているこの村では、曽孫を見るということは多産や早熟の者が三代続いたことになって嘲笑されるのである。ひきづり女とはだらしのない女とか淫乱な女という意味である。こうしておりんは年が明けてと思っていた山行きを年の内に早めるのである。
食糧の欠乏する村で飢えという身体的条件に拘束されて生きる人間が、その状況をこえていく道があるとすれば、それは自ら欣然として死地へ赴くことではあるまいか。楢山という棄老の地へ自らの意志で行くことが彼らに残された唯一の自由への道ではあるまいか。『楢山節考』はそのような倫理を措定した作品である、おりんは自分の身体的拘束を生き抜き、その彼方へ最も見事に通り抜ける人間として生きるのである。しかし、おりんが楢山行きの儀式を最も模範的に演じるには一つだけ欠けるものがあった。おりんの歯はまだ一本も欠けていなかったのである。
おりんのぎっしり揃っている歯はいかにも食うことに退けをとらないようであり、何んでも食べられるというように思われるので、食糧の乏しいこの村では恥ずかしいことであった。
それに歌にまで歌われるのである。
ねっこのおりんやん納戸の隅で
鬼の歯を三十三本揃えた
だからおりんは自分の歯を火打石で打ち、石うすにぶつけて欠かねばならない。こうしておりんは完璧に楢山行きを生きるのである。
深沢は共同体の掟をあくまで人間の条件として生き抜く人間の姿をあざやかに創出したのである。棄老に野蛮で残酷な遺習しか見ない近代ヒューマニズムの人間観に抗して、深沢はその遺習の中からすっくと立ち上がる人間を造形してみせたのである。そして共同体の掟を否定する生き方がいかに悲惨な結果をもたらすかを、楢山行きを拒んで荒縄で罪人のように縛られて谷へ伜に突き落される<銭屋の又やん>を通して描くのである。この醜悪な又やんこそ近代人の始祖である。共同体のほぼ全面的な崩壊にみまわれた現代の老人たちは自らの生存の基盤を失って根なし草となって漂う他ないのである。現代における老人の悲惨は枚挙にいとまがない。現代は新たな棄老の時代である。とくに現代の都市は到るところ姥捨山でない所はない。死ぬ形式を失った現代の老人の無残さに深沢は近代人の運命の末路を見ていた。それ故、彼は昭和三十一年、共同体の全面的崩壊の前夜に『楢山節考』を書いて、姥捨てという古い死の作法の中で死の復権をはかったのである。それは例えば現在話題になっている安楽死というような人工的個人的な救済ではなく、共同体のふところに抱かれたまことに人間的な死である。共同体の中でおのれの役割りを生き続け、最後の棄老という死の役割りを果たすとき、その死は世界のひそかな再生への力と化するのである。こうして棄老は共同体の再生者としての位置を獲得する。考えてみれば、それはすべての生物の生命維持のためのメカニズムに他ならない。このような個が全体に到りつく通路を通っておりんはユートピアヘ導かれるのである。そのとき、飢えという生物的身体的条件こそがユートピアへのパスポートとなるのである。深沢の共同体は人間と生物の接点に設定された生命の根源的な機構である。かくて、おりんは飢えがユートピアと化し、死骸が神と化す楢山へ到着するのである。それ故、おりんの楢山まいりは雪で飾られねばならない。
塩屋のおとりさん運がよい
山へ行く日にゃ雪が降る
何代か前に実在したおとりさんは楢山へ到着したとき雪が降り出したのである。雪の中を遠い楢山へ行くのは災難であるが、到着後雪が降り出したおとりさんの場合は理想的だったのである。おりんもおとりさんと同じように到着してから雪が降りはじめたからめでたいのである。
山へ行く前夜、山へ老人を連れて行ったことのある人を招待して振舞酒を出して山行きの作法の教授を受ける。山行きに守らねばならない作法は
一、お山へ行ったら物を云わぬこと
一、家を出るとき誰にも見られないこと
一、山から帰るときはふり向かないこと
の三つである。楢山へおりんを運んだ帰路、辰平は舞いはじめた雪を見て立ち止ってしまう。おりんの楢山行きを祝福するがごとき雪を見て、その感動をおりんに伝えたくて、山行きの掟も吹っ飛んでしまっておりんのもとに駆け戻るのである。そして元の場所で雪に埋って端然と念仏しているおりんに向かって
おっかあ、雪が降って運がいいなあ
おっかあ、ふんとに雪が降ったなあ
と呼びかけずにおられないのである。民話におけるタブー破りはその世界の破滅をもたらすという約束があるが、深沢の描き出したのはタブー破りが世界を飾る花と化すような物語である。
おりんが楢山へ消えた翌朝、松やんの大きな腹には昨日までおりんが締めていた縞の細帯があり、けさ吉の背中にはおりんが昨夜丁寧に畳んでおいた綿入れがあった。
なんぼ寒いとって綿入れを
山へ行くにゃ着せられぬ
『楢山節考』の最後を飾るこの歌に示されるように、おりんは黙って自分の持ち物のすべてを順送りとして後の者に送り渡していくのである。この共同体の中の棄老という様式に則った自己否定は、もっぱら生物的身体的な自己否定であり、そこにはいささかの自意識の苦悶もなく、従っていかなる精神的美化も施されていない。かかる寡黙な自己否定は近代人には不可能である。そこにこの作品の衝撃力は秘められていたのである。深沢はこの作品において小説の方法と民話の方法の相否定しあう文学の新しい地平に、飢えという地獄をやすやすとユートピアに変ずる共同体、近代の概念を反転させる共同体という約束の地を復元し、その共同体にいだかれた<おりん>という庶民を創造したのである。この共同体の約束に殉じるおりんという庶民の中に深沢は人間の祖型を見ていたのである。これ以後も深沢は『笛吹川』(昭33)『庶民列伝』(昭45)と『楢山節考』で掘り当てた庶民という人間の祖型を追い続けるのである。反近代を核とする深沢の文学は戦後文学を含めての近代日本文学への一つの異和に他ならず、その自壊を促す一つの震源地と化すのである。
深沢七郎(大3―昭62)
山梨県石和(いわさ)町に生まれた。石和の民話や伝説の中で育った。病弱のせいもあって生涯定職につかず、ギターを携えて放浪する。あらゆる既成の文学、あるいは概念から全く切れた場所で、日本の庶民のあり得た一つの原形を描く。どこか吟遊詩人の風貌を持っている。
初出 | 『貫生』第10号 | 1984年7月 |
単行本 | 『作家 その原風景 短篇小説さすらい抄』 | 1985年3月 |
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