古譚の水脈 古井由吉『杳子』
古井由吉の想念の世界には一匹の蟹が住んでいる。その体内に一本の鋭い釘を打ちこまれている蟹はどうして古井の想念の海底に住みついたのか。『雪の下の蟹』にあらわれた鮮烈な蟹の病理に出会って以来、私はこの作家に強い関心を抱き続けてきた。多分過剰な文明の時代を生き抜く人間の病理について古井ほど鋭敏な感応力を持っている作家はいない。蟹に打ちこまれた文明の釘の傷痕を古井文学は丹念に微細に追跡していく。すでにその最初の作品『木曜日』(昭42)で古井は休暇を取って山へ出かけた青年がもとの現実にうまく着地できない物語を描いた。そこには自然と文明の落差の中で転倒する精神の変調という古井文学の主題がすでに現れていた。実はこの作品より前に執筆され、後に加筆されたため発表が遅れた実質上の処女作『先導獣』(昭43)に古井文学の主題と方法は明瞭に示されていた。作品『先導獣』は
≪先導獣≫とは群の中でもすぐれて逞しい、甲羅を経た獣のことであり、この獣に導かれて群は敵の牙から安全な方向へと的確に走る。
という群を先導する指導獣のイメージが、
遊び倦きた幼い獣が、いきなり何を思ったのか空に向かって奇妙な恰好で跳び上がる。すると群は真剣な恐れに揺すぶられてどうと走り出す。
という幼くて物狂わしいきまぐれな獣へとずれていく。この逸脱の中に古井由吉の病理構造の認織があり、文学の基本的方法がある。彼の描く人物たちはいつもこのずれの傾斜を滑り落ちて精神の不調に至るのである。
そのずれの構造を作品の中でもう少しだけ押えておくと、『先導獣』の<私>は五年間の地方暮らしからかえってきて、毎朝のラッシュの群衆の静かさに目を見張る。彼はそこに<整然たる><殺到の秩序>を見る。ラッシュという現代都市の現象の中に<殺到の秩序>という現代の本質を読み取るのである。殺到とはもともと反秩序であり、殺到の秩序なんてものは存在するはずのない絶対矛盾である。それが<殺到の秩序>という不思議で奇怪な均衡を保っている現代都市の恐ろしさを古井のこの語句は指摘している。ある南米人がはじめて梅田の朝のラッシュを目撃したとき、ぎょっとして立ち止まり、しばらくして「戦争だ」と叫んだという小話がある。正常な人間の感覚ではあり得べからざるものが存在する日本の都市の恐ろしさを諷した話である。<私>はその静かな群衆の中にパニックを惹き起こすことができるかという思いに捉われる。殺到というパニックを内に含んだ秩序、いわばパニックによって構成された秩序にパニックを起こすことができるのかという問題である。現代に生きるとはそうした奇怪な難問の前に立ちどまることなのである。そこから現代の病理もまた発生するのである。この作品ではパニックの起こる構造が十分に解明されているとは言いがたいが、実に示唆的な問題が提示されている。例えばラッシュの中を実に淡々と歩いて行く犬儒的な男に出会い、私はいら立って追い抜いて行くのだが、幾度追い抜いてもその男が私の前方を歩いているという不気味なエピソードを挿みながら、ある朝ラッシュの中で柱の根もとに坐り込んでしまった一人の男に遭遇する。殺到さえ秩序の中に取り込んでしまう文明というもの、追い抜いても追い抜く自由を許さない巨大な秩序の前で、手もなくうずくまって自我に耽っている男の存在はまことにショッキングである。その大っぴらに障害物と化した男を眉をひそめて避けて通りすぎながら、人々はふとその男の視線を通して自分を見てしまう。無秩序の側に坐りこんでしまった人間の眼に映る殺到の秩序にからめ取られた自分の姿を。そのとき一瞬群衆の中に走る狼狽、それがパニックの芽である。このへたり込んだ男が先導獣である。本来群の先頭を切って群を導くべき先導獣が群の中にうずくまる障害物へと転倒し、さらに群への紊乱者と化していく。このような逸脱を描いたとき、古井の人間把握の基本的方法は確立していた。そして原型(原話)からの逸脱という文学の方法もまた確立していたのである。かくて古井は現代の先導獣を求めてギリシャ古典劇の古形をずらして『円陣を組む女たち』(昭44)を書いて女の力に着目し、『子供たちの道』(昭44)の山(自然)へ帰る子供の茫漠を経て、『男たちの円居』(昭45)で山(自然)の中で衰弱する男の向こうに生命の根源につながる女が現われてくる。こうして古井文学の主人公の座は男を押しのけて女が坐ることになり、『杳子』(昭45)では先導獣ははっきりと女に焦点を結ぶのである。
作品『杳子』の主人公<杳子>が現代の病理の先導獣として坐り込むのは現代都市のラッシュの中ではなく、深い谷底の岩の上である。単独行の登山の帰路、岩の上にうずくまって動けなくなるところから作品は始まる。
人間であるということは、立って歩くことなんだなあ、と杳子は思ったという。立ちあがって、どれも自分とひとしい重みをもつ物たちの間で、生意気にも内と外に分けて、遠い近いを分けて、自分勝手な視野をつくって、大きな頭を細い首の上にのせてうつらうつらと歩きまわることなのだ。だけど、内と外に分けたとたんに、畏れが内側に流れこんで、いっぱいに満ちて、姿全体にどこか獣くさい感じをあたえる。自分はもうここから立ち上がらない。
杳子は無防備に自然の脅威にさらされたため、人間の条件の解体に見舞われたのである。彼女は巨大な自然の前で人間の特権の虚構に気づいてしまったのであり、杳子が歩くという人間の基本につまずくのはそのためである。杳子の中の人間をこのように打ちくだいた自然とはいったい何だろう。古井は登山愛好家であり、しばしば単独行を試みるのだという。杳子の形象の背後には古井のそのような登山体験がある。『山へ行く心』(昭48)というエッセイの中に次のような叙述がある。
都会人の登山について言えば、生きた空間を取りもどしたいという欲求が明らかに働いている。(中略)いずれにしてもそれによって張りを失った空間感覚と存在感を、平地から谷へ、谷から尾根へと運び上げて、地形の中にある人間の形をつかみなおそうとする。山地から平地へ開けていく自然の展開を、途方もない時間の推移を逆にさかのぼっていくことによって、存在を原始的なものへと煮つめていき、それからまた平地へ下ることによって、自然から文化への展開を自分の足と体で確かめようとする。
登山とは文明史を溯行して原始の自然の中で自己の人間の原形を確認する行為である。この全文明史の往復の中で、現代文明の最遠点たる原始の自然の中で直面する恐怖は人間をある根源的な試練の前に立たせる。<張りを失った空間感覚と存在感>という根源的な欠如に見舞われている都会人杳子は徒手空拳で原始の自然に立ち向かわざるを得なかった。谷底という原始の自然の最も濃密に凝集している空間で、<地形の中にある人間の形をつかみなおす>べき場所で、杳子は坐りこんで動けなくなる。この岩の上に坐りこんで動けなくなった女が古井文学の原点である。古井は人間の始源の場所をそこに設定する。それではそこはどんな場所であるのか。柳田国男の『遠野物語』という照明を当ててみよう。
村の若者が猟をして山奥にはいってゆくと、遥かな岩の上に美しい女がいて、長い黒髪を梳いていた。とうてい人がいるような場所ではなかったので、男は銃をむけて女を撃った。たおれた女のところへ駈けよってみると、身のたけが高い女で、髪はたけよりも長かった。証拠にとおもって女の髪をすこし切って、懐ろにいれて家路にむかったが、途中で耐えられないほど睡気をもよおしたので、あたりでうとうとしたが、夢とも現ともわからぬうちに、身の丈の大きい男があらわれ、懐ろから黒髪をとり返して立ち去った。若者は眼がさめた。(柳田国男『遠野物語』三)
この村の若者は人のいるはずのない山奥で人間ならぬ美しい女と大きな男に会った。それは彼の属している共同体の伝承の指し示す幻想であったにちがいない。共同体が長い時間かけて自然への畏敬の中で育ててきた自然の不思議についての古譚である。多分この不思議の向こうに神が出現する。共同体の古譚は人間が自然を通って神に至る聖なる通路を持っている。山奥という人跡未踏の自然、一種の異境におかれたとき、人間を支えるのは彼の中に打ち込まれているこのような共同体の刻印である。未見の世界に投げ出されて個体としての人間が解体にさらされたとき、崩壊する個体を支えるのは古譚の中に秘められている共同体の知恵の集約、その諸関係の総和の骨格に他ならない。そのような個体の危機を支える共同体の骨格を持たない人間はたちまち空中分解するにちがいない。杳子が直面したのはそのような状況である。彼女は岩の幻想を見る。
彼女は見つめながら自分の力を岩の中へ、その根もとへゆっくり注ぎこんでいった。すると岩はひとつひとつ内側からいよいよ円みを帯び出して、谷底の薄暗い光の中で、ほんとうに混り気のない生命感となって、うつらうつらと成長しはじめた。杳子も岩と一緒にうつらうつらと成長する気になった。杳子は幸福を感じた。
杳子が原始の自然の中で解体しはじめたとき、彼女を支えるものは何もなかった。彼女はただただ解体し、自我の輪郭を失って岩へ向かって流れ出す他なかった。彼女はひたすら解体に耽り、岩との一体感の中にかすかな陶酔を感じとり、この解体がある遠い聖なるものにつながるかすかな痕跡をとどめているのをどこかで感じていたのだった。それが幸福感の根拠である。作者はそのあたりのことを自註の中で次のように書く。
昔物語ならば、谷底に一人で坐っている女は、俗界と神秘界の何らかの仲介者ということになろう。(『杳子のいる谷』)
昔物語ならば杳子は岩の幻影ではなく神を見たはずである。彼女は神という共同体の神的伝承を背負わないゆえに、岩を岩としてしか幻視できないのである。杳子は都市の空虚の中に何か根源的な欠如を感じて山へ来たのに、杳子はまさにその根源的なものに出会いながら、それを解読する手がかりがつかめない。彼女が岩の上で人間の特権的視力を失ったとき、つまり岩を岩と名づける人間の傲慢を失ったとき、あの<俗界と神秘界>の仲介者の位置にいたのである。昔物語ならば巫女として生きた女が現代ではどんな運命をたどらねばならないかをこの作品は語ることになる。精神の病理はそこから発するのである。科学という非共同体の語り部たちによって流布された現代文明の中で育った彼女は、神秘界の只中にいながら岩の言葉を解読できない。科学は自然を言葉を持たない物質として定義して疑うことを知らない。神の伝承を失った現代の巫女という位相を描く古井の文学の根底には
短篇小説はもともと霊異を語る形式なのではないかと考えることがある。霊異とはただの奇異とも違って、尊くて不思議な体験のことであり、(『霊異』)
という小説観がある。<霊異>の消滅した時代に<霊異>を生きるとはどういうことか、これが多分古井文学のライトモチーフである。<霊異>のない時代に<霊異>を生きることは一つの病に他ならない。こうして古井の描く病は<霊異>という聖なるものに根ざしていたのである。石牟礼道子が『椿の海の記』で、
そのころの、ふつう下層世界の常人は、精神病患者とか、異常者とか冷たくいわずに、異形のものたちに敬称をつけて、神経殿とかまんまんさまとか云っていた。
と書いたのに呼応する感覚である。ただし石牟礼が実体として体現していたものを、都市流民たる古井は欠如として生きていたのである。谷底の岩は霊異に出合う場所であり、杳子はそこで発病するのである。
岩の上で坐り込んで動けない杳子を俗界である都会に連れもどすのは一人の心優しい青年である。彼は後でこの救助の場面を思い出そうとすると、
あの出来事を細かに思い出そうとすると、彼はかならず不快なものにつきあたる。あの女の目にときどき宿った、なにか彼を憐れむような、彼の善意に困惑するような表情だった。≪あの女は、あそこで、自殺するつもりだったのではないか≫という疑いが浮かびかけた。すると記憶が全体として裏返しになり、彼は女の澄んだ目で、幼い山男のガサツな自信満々な振舞いを静かに見まもる気持ちになった。
この杳子の救助者も単独行の登山者であり、その頃彼自身も<自己没頭という病い>を罹っていたと回顧しているように必ずしも健全な人間とは言いがたかった。彼は彼女の同伴者にふさわしい資質を持って登場し、救助者の優位が思い出の中で裏返されていくような内省力、同化力を持った人間として設定されていた。以後古井の作品に登場する病む女の同伴者たちの最初の人物である。二人は都会で再会するのだが、山で霊異に会った杳子は都会生活に適応することができない。彼は彼女の適応のコーチの役割を受け持ち、従って二人の関係は恋人というよりは常人―異常者、あるいは医師―患者という形をとる。二人は杳子の病因を突きとめようとする。最初杳子は自分の病気を高所恐怖症と言い、彼に矛盾を指摘される。
「いいですか、高いところに立つとすくむのが、高所恐怖症ですよ」
「ええ、でも、平たいところにいる時に感じるんです。ときどきなんですけど、どうして立っていられるのかわからなくなって・・・・・・」
山から帰って交されるこの最初の会話ほど彼女の病気がどんなものかを暗示しているものはない。山(高所)の病気の都会(低地)での発病という、わけのわからない病名を創出したとき、古井はほとんど現代のただ中にいた。山の神が里に下って田の神となるという伝承が一つの時代を指示したように、山の病気の都会での発生という転倒の中に現代が暗示されていた。
二人は喫茶店でデートを重ねるうち、いつも彼より先に来ていつも同じ席で待っている彼女が、その席が先客に占められているだけでもう店の中へ入ることもできず立ちすくんでいる場面に出くわす。待ち合わせの喫茶店を変えると、その店の前まで来ながら、どうしても確信が持てずドアを押すことができない症状を見て、彼は杳子の病気を場所の病と断定する。そして彼女のために場所捜しの公園めぐりという処方箋を提出する。通勤の流れが過ぎた時刻、或る駅前の広場のベンチで彼らは落合い、今日めぐる公園を決める。杳子は公園の名前を次々に並べ立てるが、その中の一つを指定することができない。彼女には決定能力が欠けているので、彼が手助けをしなくてはならない。それから<準備運動>がはじまる。杳子はそこへ行くまでの道順を綿密に途中の駅名を一つひとつ数え上げる。乗替えの駅については<階段を降りて改札口を出て右、右へ五十米ほど行って階段を昇ってまた右>と詳細を極め、取りつくしまもないほど緊張して地図を再現する。杳子はこうして大学の行き帰りも駅の数を数え、自分の家の階段も数えているという。この世界で自分の本源の場所を失った杳子には現実への手がかりは地図しかない。場所の捕捉には実際に限りなく近い、精度の高い地図が必要となる。地図の精度の高さは彼女の病の深さと対応している。だから実際に行動に移してみて、どこかで現実と地図がくいちがうと彼女は現実への手がかりの一切を失って混迷の中を漂う他ないのである。彼女の失った本来の場所、共同体の伝承が育くむ聖なる場所(トポス)はむろん都会にはありはしない。彼女は一枚の地図を頼りに彼女の場所を捜し出そうとするが、あがけばあがくほど世界とのつながりを失い、自分自身を見失って、よるべない都市砂漠をさまようことになるのである。
蟹は重い甲羅を引きずって、まるで生きていることがそのまま一種の病いのように、見るからに苦しそうに海底を這いまわっている。
杳子は『雪の下の蟹』のように<生きていることがそのまま一種の病い>であるような生を生きていたのである。
公園めぐりは彼女の病を際立たせ、深める結果しかもたらさなかった。医師として彼女の病を治癒しようとして更なる深みに導いてしまったのである。二人は街を歩くと、すぐ疲れ果てて途方にくれる。杳子のために気を張っていると、周囲の何でもない営みが一つひとついかにも困難なこととして目に映ってくるのだった。杳子と会っていない時の自分がいかに自由闊達であるかに驚くのだった。彼は杳子の病への理解を深めていくにつれて、少しずつ医師の立場を失っていくのだった。二人はまたあの谷底のような最初の喫茶店に帰り、ほとんど口もきかずに向かい合って過ごした。こうして追いつめられた二人はある夜はじめて食事を共にする。しかしレストランのテーブルに料理が出てくると、杳子はたちまち失調に陥った。それでも杳子は努力してナイフとフォークを取り上げる。
ごく自然な慣れた手つきだが、両脇をつぼめて肘を固く折り曲げているせいで、ナイフとフォークは皿の上の食物と遠いかかわりしかない。彼女自身を責める道具みたいに、露骨な感じで白い手の中から突き出して宙にかしいだ。
杳子は人の前で物を食べることができない。食べるということの残酷さ、食べ物を奪い合ってひとり食べる動物の食事のおぞましさ。食事にまつわる覆いようもない原始性に杳子はつまずくのである。その卑しさ、恥ずかしさを人間は文化とかマナーとかグルメとかいう衣裳で包み隠し飼い慣らしてきたのだが、杳子はその衣裳の隙間からのぞいている食事のおぞましさに直面していたのである。食事という生の根幹にかかわる行為をおぞましいと感じたとき、杳子は生きることをおぞましいと感じていたのである。彼女は人間の基本的条件からこぼれ落ちていた。人間の網目から赤裸な孤立の陥穽に落ちていたのである。場所の病と思われていた病因はもっと深いところに根を張っていた。彼の前で食事を拒んだとき、杳子はむろん彼そのものを拒んでいたのである。彼女はあらゆる人間関係からこぼれ落ちる。
彼の前にいながら、杳子が自分の病いの中へ一人で耽りこんでいくことが、以前ならいざ知らず、今ではもう許せない気がした。
彼はいらだち杳子に食べることを強要する。恥ずかしさを忍んでひっそりと体の中へ食べ物を少しずつ送り込んでいく杳子を見ながら彼は杳子の病気から一人取り残された自分を感じる。彼が彼女に、彼女の病気につながるにはどういう道が残されているのか。
それから二時間後、二人はそのレストランから遠くない旅館の一室で体を重ね合わせていた。
ともすれば大道の真中で茫然と立ちつくしてしまう杳子に、自分自身の躯のことを気づかせてやりたい。そして自分自身のありかを確かにしてやりたい。
しかし触れ合った後も杳子の体はいつまでもよそよそしく温かみも伝えず、彼の体に少しも揺がされず横たわっていた。それは何度体を重ね合わせても同じだった。彼は杳子の病気の近よりがたさに打ちのめされて、
僕の力じゃ、君をどうすることもできないらしいね。僕が君のそばにいなくなりさえすれば、君はまた一人でちゃんと歩けるようになるだろう。
医師である自分こそ杳子の病気の原因ではないかと気づいたとき、彼は彼女の病気に確実に一歩近づいていた。彼はそういう絶望感の中で辛うじて杳子の孤独への通路を感じ当てるのである。彼は医師(コーチ)という自分の足場を捨てて杳子の病気の中へ浸り込むことを願った。そして彼は彼女の同伴者、あの古代の巫女(妹)に付き添う王(兄)のような位置を獲得していくのである。彼は彼女の病に、その視力の異常に同化せんと努めるのだった。二人の関係は少しずつ転位していく。二人は杳子の街の中での失調を恐れて人混みを避けたから、二人の営みは例の旅館の一室に限られてきた。二人の関係はいよいよ外に向かって閉ざされ、二人の話題も杳子の病気に関することばかりになっていった。そして杳子の体は病気を内に宿したまま女として成熟していった。杳子の自分の病気を愚痴る声にも物憂い充実感がこもってくる。彼女は自分の病気を引き受けて生きはじめたのである。やがて杳子は姉について語りはじめる。杳子は彼に家の所在はもちろん電話番号さえ知らせず付合っていたのだが、やっと彼の前に人間関係を背負った具体的な人間として現われてくる。杳子は姉の病を通って自分の病に行きつくのである。それは杳子の中でどのように人間が崩壊したかの物語でもある。
姉は彼女より九歳年長の、今では二児の母であり、両親の死後は杳子の保護者として杳子と同居している。この姉はかつて杳子と同じ病を罹っており、大学生の頃、いつも通学している家から十分ほどの駅に行けなくなってしまう。最初の目じるしの煙草屋の前まで来ると、その店の感じがいつもと違うので前に進めなくなって引っ返してくる。毎朝同じ事を繰返して結局駅まで送ってもらうと、あとはケロリとして学校へ行ってちゃんと戻ってくるのだという。
昔のことをすっかり忘れてしまって、それであたしの病気を気味悪そうに見るのよ。
<お姉さんみたいになりたくない>嫌悪をこめて杳子は言う。
こんな会話を交わした後、二人はしばらく会わないことにして彼は山へ出かけ、彼女は自分の部屋にこもって別々の日を送る。再会した日、杳子は海へ行きたいと言う。彼女はひたすら海を見たいと思いつめて暮らしたのだ。山で発病した女が回復の祈りをこめて海に立つ。荒涼とした岩の上、空と水の広がりにまともに身をさらして立つ杳子の姿は美しい。しかし奇蹟は訪れず、杳子は再び砂の上にうずくまってしまう。海から帰った杳子は完全に自室に閉じこもる。幾度かの電話のやりとりの後、彼女の家を訪れて彼ははじめて杳子の姉に会う。姉は杳子の病気を解く鍵のように現われる。
健康になって病気のことを忘れてしまった姉はどんな人か。二人のいる部屋にケーキを運んできた姉の動作は、まずテーブルの拭き方からはじまり、紅茶とケーキの運び方と並べ方、部屋を出るときの入口の棚の花瓶のいじり方に至るまで、一連の動作は寸分の狂いもない反復で成り立っているのだという。杳子は姉を罵る。
あの人は健康なのよ。あの人の一日はそんな繰返しばかりで見事に成り立っているんだわ。
それはかっての杳子の公園めぐりを思い出させる。現実への手がかりを失ったゆえに正確な地図によって現実をなずらえようとした杳子の行動のパターンと同質のものである。杳子のそれは現実喪失のただ中からの現実回復への必死のあがきであったのだが、姉のそれは現実喪失を糊塗する偽瞞の手段、現実適応の癖として固着させたものである。姉の行動のロボットめいたぎこちなさはそこからきている。それが杳子の言う<健康な暮らしの凄さ>である。
健康になるということは、自分の癖になりきってしまって、もう同じ事の繰り返しを気味悪がったりしなくなるということなのね。
と杳子は言う。人は生きていく経済学のために癖という定型を手に入れるのである。同じ場面では無条件に同じ反応を繰り返す定式を手に入れた人間はもう思い悩むことはない。その根にある大きな欠落を癖で覆い隠して意識しないことが健康なのである。健康とは人間の生の根源からの水脈である共同体の古譚の枯れ尽きる場所である。病気とはその繰り返しを
自分自身の盲目的な生命の中に斜めに浸りこんで、目だけ外に出して我身を見つめている孤独感
なのである。欠落を癖で埋める自己の偽瞞を見つめる明晰な意識のつらさである。つまり病は癖の集成としての文化への拒否としてあらわれる。しかし人間はそのような文化の総体としての社会を拒否しては生きていけない。一方、文化の虚偽に気づいた人間はもうその中に安住することもできない。杳子の突き当っていたのはそういうジレンマである。
病気の中にうずくまりうむのも、健康になって病気のことを忘れるのも、どちらも同じことよ。あたしは厭よ。
と病気と健康の二者択一は否定される。病者はこの社会で生きてはいけない。さりとて病気を完治することは健康という名のさらに無残なもう一つの病気への移行にすぎない。あの岩の上からはじまる彼女の病は共同体の聖なる伝承の欠落という文明の病であることを彼女はうすうす感じ当ててはいるのだが、この欠如は回復する手だてがない。彼女は山から街へ、街から海へと自分の病根を尋ね求めての長い彷徨を繰り返して、ついにその不在をつきとめたのである。そういうとき、人は不在を不在として生きる以外にどんな生き方があろうか。彼女は部屋に閉じこもり、入浴さえも拒み、自分の病気の中にうずくまり、ひたすらに病を生きることによって病の根源に降りて行くのである。そして彼の来訪を機に姉との、社会との和解のサインとして明日病院へ行くという。作品はその前夜彼と共に見る夕焼けの場面で終る。
地に立つ物がすべて半面を赤く炙られて、濃い影を同じ方面にねっとりと流して、自然らしさと怪奇さの境い目に立って静まり返っていた。
「ああ、美しい。今があたしの頂点みたい」
杳子が細く澄んだ声でつぶやいた。
<自然らしさと怪奇さの境い目>とは病気と健康の境い目と対応している。杳子は病気と健康という二項対立の枠をずらして、境い目こそ頂点であるという自分の新しい足場をさぐり当てることで、自分の中に潜んでいる病の聖痕が一瞬輝くのを感じとるのである。あの『雪の下の蟹』の中で蟹に打ちこまれている一本の針が暗い海の底で異和の光茫を放つように。その時、杳子に寄りそい、杳子の病に同化せんと願っていた彼は、<帰り道のこと>という日常茶飯事にとらわれて、杳子の飛翔に取り残される。
古井由吉はこの作品で、境い目という現代人の心的異常を描く絶妙の視点を手に入れたのである。彼は人間存在の境界性、その心的異常を神的象徴として捉える古譚の水脈をたどって、生命の本流からの逸脱である現代の病理を追い続ける。たとえば古譚の痕跡あらわな表題を掲げた『妻隠』(昭45)『櫛の火』(昭49)などで、境界をさまよう女たちの魂魄の彷徨を追いつづけ、やがて『聖』(昭51)『酒』(昭54)『親』(昭55)の三部作の再び山から帰還した青年の物語において、民俗伝承の古譚をふまえて病の聖痕をあざやかに示視してみせたのである。その発病から寛解に至る病の全体像を民俗的な聖なるものの憑依の伝承からの照射の中で描いてみせたのである。男の彼方にある女の不思議を古井ほど畏敬をこめて追い続けている作家はいない。
古井由吉(昭12―)
初出 | 『貫生』第13号 | 1986年7月 |
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