19、日付け変更線
 
私達の「オリビア号」は西へ西へと航行する。何日かに1時間ずつ時差を調整していく。その日は1日25時間になり、なんだか得をしたような気分になる。こうして日本との時差は拡大して、タヒチを過ぎた頃ほぼ20時間に達していた。私達は日付変更線に近づいていった。3月29日が過ぎて翌日起きて見ると、3月31日になっていて、3月30日は消滅していた。その時突然、何の脈絡もなしに地球は丸いという思いが湧き起こってきた。それは今までの旅では味わったことのない大きな感動であった。

20、スバ(フィジー)―4月1日
(写真は火渡りの儀式)
 ジャングルクルーズでナムアムア村へ行った。「ピースボート」が交流を重ねている所で、村挙げての歓迎であった。ここでは客を迎える時は必ずカバの儀式があり、カバ酒を客の前で作って出す。私は後ろの方に座っていたので作り方の詳細は分からなかったが、何やら木の根のようなものを器の中でこね回して作る即席飲料で、飲んでみても味も香りもなくそれでいて水でもなく、私はこんな奇妙なものを飲んだことがない。飲んだ後で「ブラー」と大声で叫ばなければならない。
 往復とも約1時間マングローブに覆われた川筋をクルーズをする。8人乗りのモーターボートに乗り込んでジャングルの中の濁流をクルージングする。帰りは疲れ果ててつい居眠りをする人も出る。小さなボートの中での居眠りはかなりの危険を伴う。私の前の座席の70台後半とおぼしき男性も居眠りを始めて次第に体を傾けていく。後ろで見ていてはらはらする。あまり傾いたときにはつい手を差し伸べざるを得ない。すると、手の感触で目を覚ましてしゃんとする。が、たちまちにして傾き始める。目が離せないクルージングをしてやっと船付き場に到着する。そこで1人ひとり手を取ってもらって上陸する。降りるときボートが揺れて安定が悪い。私の上陸の番になり、私が手を差し伸べたとき、船首座席の初老の大柄な男性がリュックを背負って立ち上がった。ちょうどそのとき後続のボートが止まりきれずカツンとかすかに音をたてて追突する。ボートが軽い衝撃を受けて揺れる。私の目の前でその人がリュックを背負ったまま仰向けに川に落ちる。スローモーションで見るようにゆっくりとくっきりと落ちる。その後の救出は大騒動となってみんなの耳目を集めた。そのニュースは瞬く間にツアー全体に広がった。バスに乗り込むと前の座席の人が
「いいオプションだったなあ」
と大声で喜んでいる。人の不運をそんなに喜んでいいのかととがめる視線を投げかけはするものの、ほんとに見事な落ちっぷりで、確かに熱帯のジャングルクルーズの終りを飾るショーの趣がないではなかった。

21、ラバウル(パプア・ニューギナア)―4月6日(写真はグアリム村での交流風景)
 ラバウルでは私達はグアリム村との交流に出かけた。村総出の歓迎で数百人が集まってくる。村長の挨拶やら「ピースボート」代表の挨拶やらサッカーボールの贈呈やらダンスの披露やらと長い交歓があった。その中で日本側のユネスコチームの若い女性中心の踊りはダイナミックな力感に溢れていて、見る人の目を引きつけた。このダンスチームは全ての寄港地で踊りを披露し、平和をアピールする。
 昼食後自由な交流会があった。折り紙やら風船やらシャボン玉やらみなそれぞれ用意してきた道具で交流を始める。中にはツアーの直前に配布された現地語と日本語対応アンチョコを出して、子供達に日本語を教えている人があり、これには感心した。NさんとSさんは師範学校の学生と仲良しになり、彼女達の寮に招待されているという。Sさんも私のお隣さんで、いつも颯爽としていて、赤い野球帽とGパンがよく似合う素敵なシルバーである。
 さて交流に何の用意もない私は何をすればいいのか。あたりをうろうろした後、デジカメで子供達を写すことにした。写した写真を裏面の液晶モニターで再現して見せると子供たちが集まってきて、自分が写っていることを確認すると歓声を上げる。こうして私のデジカメは1時の人気を集め、私の周りに人垣ができた。終いには大人までもやって来た。
 それから私は村の家庭を訪問した。しかし村人は全員歓迎会に出ていて、村は空っぽだった。家は簡素な高床式であった。案内の人に家の中を見せてもらう。4畳半ほどの2部屋があり、敷布団のごときものと上掛けのごときものが人が抜け出た形のまま置かれており、他の物は何もなかった。その簡潔さにショックを受けた。人間はこうしても生きられるし、多分これが本来の生き方であったに違いない。このような簡潔な生活から私達は遠く遠く離れた地点に来てしまった。それはマダガスカルで聞いた「ムーラムーラ」(ゆっくり生きよう)という言葉から始まったカルチャーショックのとどめの1撃であった。あらゆる時間がゆったりと流れるマダガスカルで「ムーラム―ラ」を聞いた時、日本での気忙しい生活とは別の世界に触れたのだった。「ムーラムーラ」はそれ以後「オリビア」の合言葉となっていた。
22、船上生活(写真はある日のサンライズ)
 妻は早朝から起きて「ラジオ体操」「デッキ散歩」「健康体操」をして朝食を取って「英会話」に出席する。私の1日は朝食から始まる。朝食後企画が始まる10時半までデッキに出て海を見ていることが多い。寄港しない日は毎日毎日海ばかり、島もなければ行き交う船影もない。ほんとうにただひたすら海ばかりである。船首へ行けば飛魚の飛翔が見える。水面を掠めるように跳ぶ飛行距離はとても魚とは思われなかった。イルカの群れを1度見たが、鯨は遂に1度も見られなかった。
 サンセットもよく見た。雲を赤く染めて太陽は水平線の彼方に落ちて行く。それは見るたびに、太古の地球の営みに立ち会うような神話的な情感に満たされた。
 私は「ピースボート」事務局の主催する水先案内人の講義はよく聞いた。水先案内人と呼ばれる専門家や現地のNGOが手弁当で乗船し、次の寄港地の案内や問題点を中心に講義した。音楽家も含め幅広い人材を集め、多彩な催しをした。全講義を通してNさんが最も熱心な参加者でいつも的確な発言で講義を盛り上げた。なぜか若者の姿が少なく聴衆はシルバーが目立った。
 映画もよく見た。私の見たベスト5は「菊次郎の夏」「蜘蛛女のキス」「レオン」「セントラルステーション」「フラミンゴの季節」。シネマシアターには若者も来ていた。
 本来「ピースボート」は若者の船なのだから、船内イベント全体を彼等が支えていた。「赤道祭」、「船上運動会」などでの船全体のイベントで彼等の活躍が目だった。毎日発行される新聞「あるがまま」は彼等の手で作られていた。最上階のスポーツデッキで若者達はサッカーやバスケットを楽しんでいた。
 「ピースボート」事務局スタッフも若く、代表のK氏は33歳であった。この人達がクルーズ全体を支え、次々と企画を出してクルーズを組み立てていく様は感動的であった。私はすっかり「ピースボート」ファンになり、帰国後話す機会があるたびに「ピースボート」の宣伝をした。

次のページ
6ページ