コロッセオ(円形競技場)は現存する古代ローマ最大の遺跡であり、石を積み上げて造った大競技場は現代のどの競技場にも劣らぬ規模を持ち、この遺跡は景観そのもので見る人にローマの偉大さを思い知らせるほんものの名所である。しかもそれは伝説などではなく、史実そのものが語る戦慄すべき物語を持っている。百万都市ローマ市民に見世物を提供する施設の最大のものがコロッセオである。建設時は現在の三倍あり、布製の屋根が張られていたという。いま私たちが観客席に立って見下ろしている巨大競技場の露出している石組の仕切りの枠は床下の土牢や野獣の檻のためのものであった。本来はその上に床が張られていて競技は床の上で行われ、剣闘士の闘いには砂が、野獣狩りには茂みや小山等の装置が、あるいは水を張って池を作り船を浮かべて海戦も行われた。ここで人と人の、あるいは人と野獣の死闘が繰り広げられたのである。勝者には莫大な褒美が、敗者には、皇帝が死か恩赦を皇帝席から裁決した。
そういう死闘を見世物として享楽したローマ人の残虐ということについて私は考えざるを得ない。他人の悲惨を見世物にする人間の冷酷無情とはいったい何か。私たち日本人の冷酷はもっと陰々と人目を忍んで行われたのではなかろうか。罪人の引き回しや晒し首にしても何か見せしめという暗い情念がつきまとい、これほど陽気な熱狂には至らなかったのではないか。それを見てブラボーと声をあげ、肩を叩きあう陽気な見世物には決してなり得なかったのではないか。そこにつどって人間同士の殺戮に狂喜したローマの民衆の無邪気で陽気な冷酷さにおいてコロッセオは人類の暴力の輝かしい遺産である。このおおらかな残酷さの前では私たち日本人の生き方はまるで小さな偽善のように思われるから不思議である。
アッシジの城門を入ると、狭い石畳の道にぴったりと沿って石造りの家並が現れる。ともかく道いっぱいに立っている壁の外側が道で内側が家なのである。城壁のため街は外へ広がりようがないので、家は上へ上へと聳立するほかなった。そのため狭い道の両側の家並の壁が高々と切れ目なく聳えているので、道はまるでそそり立つ岸壁の間を流れる谷川のようだ。広場は満々と湖水をたたえたダムのようだ。ここアッシジのコムーネ広場はゲーテが絶賛したミネルバ神殿のギリシャ風の列柱が聳えている。一三三七年に建てられ、現在もなお市役所として使用されているロマネスク様式の古い建物もある。イタリアの広場は市民の社交場であると言われている。人々は一日に何回もここにやって来ては団欒の時を過ごすのだという。
日本の家とイタリアの家は全く趣を異にしている。日本の家は内向きに建てられている。個々ばらばら、自分の都合のみで建てられている。『方丈記』以来、外に向かっては〈棟を並べ、甍を競へる〉という対抗意識だけで全体の調和という思想が欠けている。それは一戸建てが基本で、集合住宅という形態がないことも関係していよう。日本ではついに街並の美という意識が生じなかった。芦原義信が『街並の美学』で指摘しているように、ヨーロッパ城郭都市は大きな一軒の家のようだ。城門は出入口で、道は廊下、家は部屋、広場はリビングルームだ。すると街全体が家族である。わが国の家の中にある「内的秩序」が城壁内の街の中にある。街は運命共同体である。このアシッジの石を積み上げて聳え立つ家はすべて共同住宅なのではなかろうか。つまり彼らには自分の家という思想はなくて、街という関係性の中で生きているのではなかろうか。ヨーロッパの個人主義はそういう存在構造の中から生まれたのではなかろうか。
ルネッサンス時代のシエナ共和国の首都シエナは、当然のことながら中世城郭都市である。ここの観光の目玉はカンポ広場とドゥオモ(大聖堂)であるという。カンポ広場は甲子園球場ほどもあろうかと思われる扇形の、広場の国イタリアを代表する堂々たる広場である。その扇の要にププリコ宮殿があり、マンジャの塔が聳えている。中央に赤いレンガが敷きつめられ、周辺にアスファルトの道路が走り、その外周を四、五階の建物が取り巻いている。そのカンポ広場に差しかかった時、雨がざーと降ってきた。あちこちに傘の花が開く。しかしよく見ると傘をさしているのは日本人観光客ばかりで、イタリア人はみな平気で、というより楽しげに雨に濡れていた。実は私もバスに傘を忘れてきたのでイタリア人並に雨に濡れながら歩いた。イタリアの雨は日本の雨のようにべとつかず、さらさらと顔に当たって弾けた。多少の気取りはあったにしろ、こんなに平気な顔で雨の中を歩いたことはない。しばらく歩いて雨が上がると、すぐさまさーと乾いて行くのが感じ取れる。なるほどこれが乾燥地帯の雨かと妙に感心する。城郭都市は乾燥地帯を中心に分布するという。
ここのドゥオモは街が小さい割りに堂々たるファサード(正面)を持つイタリア屈指の美しい教会である。しかし私はドゥオモよりも何よりも、この街並が気に入った。狭い道に沿って家々がそそり立ち、その道が迷路のように曲がりくねって行くのである。それを曲がって行くと中世が現れて来る。もちろん車なんてものは一台もない、そっくりそのままの中世である。町は広がりようがないので、上へ上へと伸びて行く。でも無闇に高層化したりはしない。土台が中世だから、高さも自ずから限度というものがある。すべて四、五階である。中世の上に現代があるというイタリアの存在様式、それが中世城郭都市の節度というものだ。私は家の中でどんな生活が営まれているか知らない。しかし家の在り方から内部の生活も想像できる。先祖代々の古い家具などが大切に使われているに違いない。私たちが昼食を取ったレストランは古いレンガが壁、天井まで一面に敷きつめられていて、壁面には現代アート風な絵が掛かっていて、それが実にしっくり調和しているのだ。イタリアはシックだなあと感嘆する。古い物をどんどん消却して、新しさだけが価値の基準となった日本とは大変な違いだ。今、私たちの生活がどれほど成金的に流れているか、イタリアを歩いているとよく分かる。