1、乗船まで

 「もう一度行こうよ」
と妻が誘うので、二〇〇二年のピースボートの「地球一周の船旅」の許可を主治医に求めた。
「薬はどうするのですか」

の一言で旅の計画は頓挫する。私は心臓手術の後遺症で不整脈が出ていて、血行促進剤を飲んでいる。この薬は毎月血液検査をして調合するから一ヶ月分以上はもらえない。
「体調を整えて、また来年トライします」と引き下がらざるを得なかった。
翌年の旅行の申し出に主治医から「できるだけの協力をしましょう」と言葉をもらった。これは思わぬ朗報だった。薬は寄港地で血液検査という難しい条件がついていたが、参加許可書を手に入れて乗船のめどがついた。しかし、薬は寄港地で調達という主治医の指示と全期間分持参するという船の原則との折り合いがつかず、主治医と船医の話し合いになり、これが決裂して、乗船許可が取り消され、再度、旅行中に心臓病が起こっても自己責任である旨の特別契約書を提出して晴れて乗船できる身となった。

一難去ってまた一難というか、一身上の問題が解決すると、今度は世界の問題が襲いかかってくる。イラク情勢は緊迫の度を加え、ついにアメリカがイラクを攻撃するに至り、スエズ運河が閉鎖されるかもしれないという可能性が生じる。もう一つはサーズが蔓延し始め、あちこちで旅行中止のニュースが相次ぐでもこれは世界の問題で、私たちにはどうすることも出来なかった。旅行企画者のピースボートが船を出す限り行こうと決めていた。ただ旅の目的の一つがスエズ運河を通ることだから、船がスエズ運河を通ることを出発の条件に入れていた。結局サーズのため、上海寄港が那覇に変更されただけで出航にこぎつけた。

2、アンコール遺跡(カンボジア)

ダナン(ベトナム)もシンガポールも前回のツアーで見ているので、今回はダナンからアンコール遺跡を見るオーバーランドツアーを選んだ。ダナンからホーチーミンを経てカンボジアに入ったが、ベトナムの活況に比べて、カンボジアは暗くひっそりとしていた。節電のためあまり電灯を点けられないからだという。

アンコール遺跡群は密林の中に散在していた。アンコールワットの優雅さはいうまでもなく、アンコールトムの気品あふれる仏塔に感動した。これらの名だたる遺跡に混じってタプロンという遺跡がある。この遺跡はガジュマルの木に占拠されている。発見されたときはもう手の施しようがなかったという。木を取り除くと遺跡も崩壊する。木は自分の意思で遺跡を抱きかかえて繁茂していた。それは文明と自然との格闘ではなく、むしろ調和の相と言った方がいい。自然を切り開き対抗して作り上げられた文明が、長い時間の果てに自然と和解し共生の関係を回復したのである。自然にゆだねた遺跡の豊かな表情に私はいつまでも見とれていた。今まで見た最も美しい景観であった。

3、コーチン(インド)

 二〇〇三年六月一五日神戸港を出航、翌々日沖縄を出てから台風に巻き込まれて、船は大揺れに揺れた。インド洋はずっと悪天候であった。 コーチンも雨の中の観光となった。南インドのケーララ州コーチンは明るく開けた海洋都市である。雨にけぶる海辺でフィッシィングネットという手動の魚採り装置を見た。大勢で網を引き揚げるのだが、大きな網の割りには少量の魚しか取れず、インド的悠長さとでも言う他なかった。

ケーララは何よりも伝統舞踏劇カタカリに感動した。男性だけで演ずるカタカリは隈取も様式も歌舞伎に似ていたが、手のしぐさと表情が豊かで、歌舞伎よりはるかに繊細な芸であった。

4、マサイマラ(ケニア)

ケニアはマラリア汚染地区なので船はマラリア予防薬をのむことを勧めている。私は常用薬との関係で予防薬が飲めないのでマサイマラ行きの中止を勧告された。食事の時同席したスイスの女性はマラリア予防薬を飲まない、長袖のシャツと虫除けスプレーで防御するという。つまりは蚊に刺されなければいいのだ。私も防御策を講じて行くことに決めていたが、それでも医者に逆らうのはいい気分ではない。

マサイマラは広く開けた草原であった。気持ちのいい展望が地の果てまで続いている。いきなりチーターが三匹の子どもをつれて現れる。広い草原に地から湧いたように草食動物の群れが現れる。草原いっぱいにシマウマ、ガゼル、インパラ、トピイ、何という豊穣な大地よ。まだこのような動物の楽園が残されているなんて地球に希望が持てる。次から次へとさまざまな群れが現れては消え、感動の連続であった。

ちょうど雨季に入ったところで、ヌーの群れが渡河してタンザニアからやってくるというニュースが届く。ヌーの渡河の映像も事前に見ているので心待ちしていた。まさにそのヌーの群れに出会う。百頭くらいの集団が現れる。縦に長い列、ほとんど一匹づつの縦隊がゆっくりと進んでいく。突然先頭が走り出すと、群れ全体が疾走し始める。群れの疾走は迫力に満ち、ドドッドドッという地響きが聞こえてくる。これがサファリの最高のシーンであった。

私はホテルが主催したマサイ族の村へのツアーに参加した。周囲を簡単な柵で囲んだ中に乾燥牛糞で作られた小さな家が十軒ばかりあった。もともとの草原はマサイ族の放牧地であったのだ。そこが国立自然保護区となり、観光客がどんどん入ってくる。サファリカーが走り回り、マサイ族に出会うことはめったにない。
マサイ族の自給自足の生活が崩れて、現金が必要になってくる。居住区そのものが観光地となる。女たちは家の側でお土産品を売り、子どもたちは観光客を一列に並んで歓待する。その子どもたちの何とかわいらしいことか。瞳の愛くるしさは日本の子どもには見られないものだ。私は何度も何度もシャッターを押す。

NO・1
ふたたび世界一周の旅ー長文編