8、国際交流
(写真はラバウルグアリム村との交流)
 船が南アフリカに近づく頃、私はNさんと食事をしていた。この人は私の前のキャビンの人でいわばお隣さんだ。快活でいつも笑顔の人だ。その私達のテーブルにソマリアからのゲストのアメルド・ムルサルさんがやってきた。私がどうしてこの人を知っているかというと、その日の新聞にこの人のインタヴューと似顔絵が載っていたからだ。
―日本人をどう思いますか。
「これを言うと嫌われるかも知れないが、社交性のレベルが低いと思う。5日間の乗船中、話しかけられたことはほとんどない」
―英語に自信がないからでは?
「それだけではない。欧米やアフリカ人は言葉が通じなくてももっと積極的だ。この船には英語に堪能な人も乗っている。国民性の問題だ」
私はこの記事を読んでショックをうけた。思えば私は国際交流の旗を掲げているこの船に乗って以来まだ外国人に話かけたことがなかった。それにしてもこの船の誰も話かけていないとはゲストに対して失礼ではないか。そう思っていた矢先にその人が現れたのである。私は話題もなければ英語もできない。傍にいるNさんに
「Nさん、何か話してください」
と救いを求める。その時まで私はNさんの語学力を知らなかった。ところがNさんが見事な英語で話し始めるではないか。
「彼は神戸で大地震が起こった時、救急車に乗っていたのです」
私が先ほどNさんに話していた話題で話を始める。私なら何を話題にしたらいいのか戸惑うところをさらりと話を切り出す鮮やかな話術でひととき国際交流の輪がつながる。後で知ったことだが、Nさんは札幌で留学生の世話をしていて、世界中に友達がいる人である。

9、ケープタウン(南アフリカ)―2月16日(写真上はテーブルマウンティン、下は喜望峰)

  ケープタウンに近づくと、波の彼方から幾何学の図形のようなものが競り上がってくる。デッキの人波から嘆声がもれる。空を1直線に絶ち切った台形の山容がひたひたと迫ってくる。テーブルマウンティンの巨大でシンプルな構図の美しさは圧倒的だ。その下に細長い帯のように広がるケープタウンの白い街はこの世ならぬ清楚なたたずまいをしていた。褐色の岩肌を露出させて覆い被さる山を、街は白いビルを聳立させてきっぱりと押し返していた。山と街のコントラストが見事であった。私のカメラの中で、ケープタウンは海鳥が飛び交う港を前景にして額縁に入れられた幻想画のような街になった。このクルーズのベストショットであった。

 ケープタウンからバスで喜望峰観光に出かける。ケープ半島は広大な自然保護区に指定されていて、岩肌の露出した荒々しい草原が元の姿のまま保存されている。ダチョウ、ヒヒ、シカが潅木の茂みの間に見え隠れする。
 喜望峰を見下ろすケープポイントから見ると、アフリカ南端の喜望峰はインド洋と大西洋の出会う海につつましく横たわっていた。しかしその地に降り立って見ると、赤茶けた岩の塊を積み重ねて荒々しく海に向かって突出していた。先端に立つと、両足でふんばらなくては吹き飛ばされそうな強風が吹きつのっていた。最初「嵐の岬」と命名されたが、むしろその名がぴったりな岬であった。バスコ・ダ・ガマはこの嵐の岬を回航してインド航路を発見した。それを記念して「喜望峰」と改名したのだという。ここは私にとって地球の指標の1つであり、1度見たかった憧れの地である。
 10、囲碁会
 夕食はセッティング料理で座席が指定されていて、1週間から10日ほど4人から6人の固定メンバーで食事を共にする。私はその席でいろんな人と知り合った。アフリカを南下する頃N氏と同席になった。私達は同じ大学の同じ学部の卒業生で、私の方が2年先輩であることが分かり、懐旧談に耽った。共通の知人をたどっているうちに西村修氏というアマチュア囲碁界の有名人が出てきた。私は名前しか知らないが、N氏は同級生で囲碁を教えてもらったという。こうして私はN氏の縁で自主企画(Y代表)の囲碁会に入ることになった。N氏に会わなければ囲碁会に入ることはなかったのだから、出会いというものは不思議なものだ。
 私の囲碁は学生時代の遺物であり、船に囲碁会ができた時も気持ちが動かなかったが、入ってみると囲碁は思いのほか楽しかった。私は新しいものばかり追いかけて、古いものを振り捨てて省みない生き方をしているが、久しぶりに囲碁に対して情熱が蘇ってきて気持ちよく打てた。勢いあまって指がしなったりした。
 会に入ったことで私の交友は1挙に広がった。囲碁会に入会した日、私は会の代表格であるY7段に打ってもらった。この会には高段者が大勢いて、3段以上で1部リーグを形成していた。私はY7段、M5段、T4段、K4段という夢のような豪華メンバーによく打ってもらった。
 大西洋トーナメントでは2級で登録し、2段から3級の7人で構成する2部リーグに入り、5勝1敗の成績で、昇級して次の大会から1級で打つことになった。これは自信になった。私は囲碁の才能がないと見限っていたが、もう少し強くなるのではないかという野望が芽生えたほどだ。新しい遊びを求めての旅で、古い遊びを再発掘したのは望外の喜びであった。









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