13、震災心身症(カットは木南彩子さん)
 
あの地震の一揺れで、私の魂は身体から揺り出されてどこかへ浮遊してしまったのか、私はふぬけのようにぼんやりとして日を送っている。あの日以来私は地震以外のことを受けつけなくなってしまった。テレビも震災関連のニュース以外は見る気が起こらない。他の事は空々しくて見ていられないという震災中毒にかかってしまった。私の精神はクラッシュし、何も彼も面倒になる。私は震災が露出させた異空間から元の日常世界に帰還できないのではないだろうか。自分を立て直そうという気力はまるで湧いてこないのであった。自分の穴の中に落ち込んで暮らし、今何がやりたいのかと自問してみるのだが、生きる目標は一向に見えてこないのであった。外観は何でもないのに、内部の損傷がひどくて全壊と判定された家屋のように、私はがらんどうの心を抱いて生きていた。私の心が震災にしか向かないのであれば、私は震災を生きるしかないのではないかと思い始め、被災地を休日ごとに歩いてみることにした。私は日々テレビや新聞で震災の情報を受けているが、あれは一種のフィクションだと思っている。あれは他人の目を通して見ている虚像に過ぎない。私は自分の目を信じているわけではない。自分の目で見たからといってそれもまた虚像の一種であることは知っている。しかし現場に自分を置いて、目だけではなく、内臓を含めての自分の全体でそれに向き合ってみたいのである。それはテレビで見るのとは全く異質の行為であるはずである。

14、神戸の崩壊(震災で亀裂ができた六甲アイランド海岸)
 2月19日には元町から三宮・新神戸へ歩き、2月25日には呉の親戚の法事で中休みをしたものの、3月4日には住吉の恩師宅を見舞い、学生時代から長らく住んでいた御影周辺を歩いてみた。見れば見るほど神戸の傷跡は深くて果てしなく広がっていた。傷はどこも鋭く生々しく衝撃的で、私は「ワァー」とか「ヒドイ」とかいう嘆声を上げているのであった。私は一つの都市のこような壊滅的惨状に一体何を見ているのであろうか。例えばかつて労演会員として演劇を見続けた国際会館の痛ましい亀裂に私は何を見ていたのであろうか。人間をさえ風景として見ようとしていた私にはそれはやはり風景に過ぎないのであろうか。それとも亀裂し崩壊する風景の向こうから人間が現れるとでも言うのであろうか。ガレキの中の花束にこめられた死者への祈りの心が分かるか、営々と築いた家を一瞬のうちに失った人の無念の心が分かるかと問われれば、無論私には分からないと答えるしかない。私が見ていたのは都市の崩壊の背後から現れる自然の素顔であり、人間を見舞う運命の姿である。

15、一の谷から鉄拐山へ
 歩くにつれて私の体力は確実に回復し、歩く距離も延びて行くのであった。でも肝心の西国街道の残りの一の谷から鉄拐山へは天候やら気温やら体調やらの関係で二の足を踏んでいた。低いといえども山登りは私には難事であった。
 3月12日うららかな春日和につられて、体調はもう一つだが、そんなことを言っていると行ける日などあろうはずもなく、鉄拐山の登ることにする。山陽電鉄は開通していないし、地下鉄新長田駅も営業していないので、地下鉄板宿駅から乗換え駅のJR鷹取駅まで歩いたが、途中の道はまだ瓦礫の山が残り撤去作業は進展していない。鷹取駅の東南一帯は焦土と化してはるか南の阪神高速の高架まで何にもない。JR須磨駅で降りて古戦場一の谷まで歩いたが、一の谷は源平最大の戦場で平家の貴公子10人が死んでいる。その古戦場を示す「戦いの浜」の石標の立つ所から鉄拐山に登った。安徳帝社のある住宅地まで登る急坂の道の階段が破損していて、通行止めのロープが張られていたが、他の道が見当たらないので、ロープを掻い潜って登った。住宅地を過ぎるとまた登山道がある。その登り口に数メートルの供養塔が立っていたのがばらばらに倒壊している。誰の供養塔であろうか。そこからしばらく登ると山崩れに出会う。登山道の手摺がはるか下方に落ちている。
 芭蕉は武将の中では義仲と義経が好きであった。この義経縁りの山へは是非登ってみたかったのだ。16の少年を熊王に見立てて道案内をして貰う。

 数百丈の先達として、羊腸険阻の岩根をはいのぼれば、すべり落ちぬべきことあまたたびなりけるを、つつじ・根ざさに取りつき、息をきらし、汗をひたして、漸く雲門に入るこそ、心もとなき導師の力なりけらし。

「数百丈」と言い、「雲門に入る」と言うからどんな高峰かと思うが鉄拐山はたったの234メートルの低山に過ぎぬ。それは確かに「羊腸険阻」に海からいきなり聳立してはいるが、背後の守りは鉄壁と安心できるような山とは思われない。今は階段つきの迂回した登山道だから散歩道に過ぎない。それでも私にはきつい。手術後の患者の歩行訓練のようにゆっくりと登る。
 頂上からの展望は樹木に遮られてあまりよくはないが、海辺に広がる旧市街地一面の青いビニールシートが屋根の破損のひどさをを示している。一方山側のニュータウンはほとんどビニールシートが見当たらなくて、この山を境に被災の差異は一目瞭然だ。それはほとんど差別と言っていいほど歴然としている。今明石海峡では明石大橋の架設工事が進んでいるが、地震の地殻変動で橋の長さが1、1メートル伸び、そのため橋げたが1,3メートル上昇したという。地震後、この辺りの海では魚は釣れないという。海底の破損が激しくて魚が怯えて食いつきが悪いらしい。
 芭蕉は背後の山々に目を転じ、

  又後の方に山を隔てて、田井の畑といふ所、松風村雨ふるさとといへり。尾上つづき、丹波路へかよふ道あり。

と記している。今この展望は一変して、須磨ニュータウンの家並が果てしなく続いている。名谷ニュータウンはかつて古神戸湖の湖底が隆起してできた丘陵に立っているが、その時の地殻変動が引き起こした地震はどのようなものであったろうか。震度7や8なんてものではなかったところまでは想像できるが、私の想像力はそこまでいって絶句する。そういう地球の歴史の中において見れば、今回の地震ごときはささやかな異変に過ぎない。

16、終りに
 さて私の腹中の石だが、その後全く動かなくなってしまった。痛みも全くない。主治医は春休みに取り出すという。尿管に内視鏡を入れてつまみ出すらしい。この2か月にわたり私の中に住み着いた石をそんなに簡単につまみ出してもいいものかという気がする。それはひょっとすると過剰治療というものではないかと思ったりする。しかしそれは私が日常生活に復帰するに必要な手順であろうかと思い返し、この宇宙からの使者を体外へ送り返すため、私は4泊5日の近代医学への旅に出かけようと思う。         (1995・3・17)
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