ー私の震災日記ー
1、須磨観光案内
私の須磨観光案内は歌枕須磨を尋ねて西国街道を歩いて見るつもりでいた。ぼちぼち歩き始め、少し書き始めたりしていた。この構想を阪神大震災が吹き飛ばした。戦後最大と言われたこの甚大な被災が私の西国街道筋の須磨の遺跡について書く気持ちを打ち砕いた。神戸そのものが遺跡と化したのであった。私は急遽テーマを変更してこの歌枕の地「須磨」に刻まれた被災の跡を歩いてみることにした。
2、救急車に乗る(写真はリビングで倒れた本立)
1995年1月17日未明腹部に激痛が走り、私は119番で救急車を呼んだ。痛みは風邪とともに1周間も前から予兆のごとくはじけ続けていた。次第に痛みは激しさを加え、2日前からそれはほとんど激痛の様相を呈し始めていた。前日から幾度も救急車が頭をよぎり、この未明ついにギブアップした。
私が救急車のベッドに横たわった時、突然車が踊り跳ねた。明らかに走り始める動きとは全く別の、不規則な上下運動であった。車はゴム毬のように地面を跳ねた。「地震だ」「しばらく動かないで様子をみよう」という救急車の人たちの会話で地震であることが分かった。それは淡路島北淡町を震源とするマグネチエード7・2、震度7(神戸市西区の我が家の周辺では震度6か)の激震の、戦後最大の揺れであった。私が幼時新居浜で体験した1946年の南海大地震よりも揺れははるかに激しかった。その時、家の中ではさまざまな家具が倒れていた。高さ215センチ、幅185センチのスチール製本立が私の布団を直撃していた。もしそこに寝ていたなら、身をかわすのが困難ではなかったか。とすれば、この救急車は私を地震の被害から救出してくれたことになる。同じタイブの本立がリビングでも倒れていた。私はシンプルライフを心がけ、なるべく余計なものは持たないことにしているのだが、本だけはどうしても捨てられない。読みもしないのに、狭い家を更に狭くして後生大事に抱え込み、本当に命取りになりかねなかった。ばかばかしい無用の長物よ。本は処分せねばなるまい。
さて、病院に着いてどうも腎臓結石らしいというところまでは分かったのだが、停電で検査不能という。しかも私の到着後、地震で頭部に怪我をした人々が続々と送り込まれて来て、救急病棟がたちまち満杯になる。腎臓結石とは腎臓でできた石が尿道を通って下って行く途中で引っかかって、尿道を塞ぎ痛みを引き起こすのだ。でも地震の怪我人の中に立ち混じると、いかにもうさん臭げな病気で、痛み止めの注射を打っただけで、「これ以上はどうすることもできません。痛みが再発したらまた来て下さい」と言い渡される。タクシーを呼んだが救急で手一杯だと断られる。結局妻が家まで帰り、車を持ち出して私を連れ帰り、昼過ぎもう一度痛みが来て、再び来院し、今度はレントゲン撮影ができて、結石が確認され、石を流し落とす薬やら痛み止めやらを貰って帰るということになる。
3、テレビの震災報道(写真は長田の被災地)
こうして私はこの日と次ぎの日、痛みの中で暮らし、テレビも見なかったので地震がどうなったのかを知らなかった。テレビは例によって、あらゆる番組を吹っ飛ばして、地震の特別番組を流し続けていたらしい。テレビで神戸の惨状を知った私の親族たちは全国から私めがけて電話をかけ続けていた。その時神戸の電話はパンク状態で、95パーセントが不通であったという。そんな電話の一本が18日夕方偶然に繋がった。私は事態の深刻さに初めて気づいた。私はテレビをつけてみた。しかしテレビのあるリビングも本立が倒れ、本は散乱したたまま放置されていて、テレビを見るにいい環境ではなかった。だから私は以後テレビをあまり見ていないから、その報道について何か言う資格はない。しかし見ていると、どのテレビ局も同じ映像を繰り返し放映しているのではないかと思われた。衆人の耳目を集める地というか、テレビ映りのいい地というか、一度スポットが当たると、震災名所とでもいうように繰り返し報道される景観がある。映像は固定化された分だけ被災の広がりの現実は捕らえられていなかった。例えば長田区、ここは被災直後から火事の映像が入り、その焼け跡が映り続けた。それは戦場の惨禍を思わせる衝撃度の高い絵として人々の目を引きつけた。長田は今度の震災の一つの中心であり、その悲惨な映像は神戸の災害の典型として全国に発信され続けた。一方隣の須磨区の映像は報道されることはなかった。須磨は無視され続け、周縁に押しやられ、あたかも震災を受けなかったかのごとくであった。でも淡路に端を発する活断層は須磨から長田を経て三宮を通り灘・東灘・芦屋・西宮に至っていた。須磨は震度7の激震地の線上にあり、その被害は決して小さくはなかった。確かに長田の災害はあまりにも衝撃的ではあったが、地震の被害は長田区で終わった訳ではない。
震災から1か月後の2月16日現在の死者数は長田区723人に対して須磨区は339人である。倒壊家屋数長田の17509に対し須磨10135、焼失家屋数長田4017に対し須磨1172という。ちなみ私の住む西区は死者l2人、倒壊家屋1500、焼失家屋1である。私は数字を挙げながら改めて地震の破壊の凄まじさに驚く。須磨の被害もまた深刻だった。
1台くらいのテレビカメラが須磨区に入ってもよかったのではないか。いや日が経つにつれて須磨の震災情報もぼつぼつとやっては来た。しかしそれは須磨水族園の魚の大半が死んだとか、ある中学が閉鎖されている水族園のレストランで授業を始めたというようなトピックスに過ぎなかった。被災地長田の陰で須磨は報道から排除され続けていた。ともかく須磨の被災情報が来ないとすれば、自分の目で確かめる他あるまいと思い始める。家が倒壊して避難所にいる友人たちのことも気がかりである。
4、私の衰運
しかし私の体調は一向に回復しないのであった。私の体力は底をつき初めていた。昨年暮れ以来の風邪が治らない。私は15年前の心臓病の発見以来、心臓を庇うあまり、あらゆる運動を放棄した。ほとんど歩きもしなくなった。どこへ行くにも車である。車で行けない所へは行かなくなった。私は西国街道の取材のために15年ぶりに歩いたり、鉄拐山に登ったりしたものだから、その時の体力の消耗が引きがねで風邪を引き、おまけに結石まで背負い込んでしまった。私の運勢は震災に向かって下降を続けていた。私の母の容体はいつどうなるか分らないので用意しておくようにと言われていた。妻の養母も同様な状態だった。妻の母の方が早かった。1月14日に死亡、翌15目は彼女の長男(妻の従兄弟)の一周忌が予定されていた。16日通夜、17日が葬儀に当たっていた。私は14日早朝から病院に駆けつけたが、その日の寒さで風邪をこじらせて寝込み、15日の従兄弟の法事も16日の通夜も腹痛と風邪で行けなくて、妻だけが出かけたが、私の状態が心配で夜は帰宅していた。私は何かに向かって滑り落ちようとしていた。幾つかの下降線が交錯して、17日の未明を迎えた。でも体内の石が私を本立の激突から救ったとすれば、私にはまだ運が残っていたと言うべきであろう。私が呼んだ救急車の時ならぬサイレンで目を覚ました近所の人の中にはそれで地震に対する備えができた人もあったという。私の石は人助けまでしたわけだ。
5、無常観
以後、私は出勤するだけが精一杯の日が続いていた。私は体力の回復を待ったが、26日にまた結石の痛みが再発したりで、いつ被災確認のため須磨へ行けるか見当もつかない。私は自分の不調にうんざりして過ごし、私の体内の石が活断層という地球の石の活動に連動しているのではないかと思ったりする。地球の活断層の動きは宇宙の運動の一つの連鎖なのではないか。宇宙のあるささやかな運動の波動が我々に地震という自然現象として伝達され、私に宇宙との紐帯をかすかに感知させる。「神戸に大地震などくるはずがない」という私の信仰を打ち砕く。「この本立は倒れるはずがない」という確信を覆す。この地震について各界の専門家・責任者たちは声を揃えて「予想をこえていた」と言う。私たちが信頼しその上で暮らしていた「科学」の虚妄があばかれる。我々は宇宙からの通信を感受する能力を失っていたのである。前近代の人々はもう少し宇宙的感性を持っていたのではなかろうか。兼好にしろ、長明にしろ、彼らの「無常」という思想は宇宙に向かって開かれていたように思う。例えば「劫」という仏教的時間は人間の時間に直せば4億3千2百万年という宇宙的スパンで測られていた。無常という思想は地震や火事を人間の条件として組み入れていた。『方丈記』を読むと、都の3分の1を焼失した安元の大火(1177年)、3、4町の間の全ての家をふっ飛ばした治承の竜巻(1180年)、隆暁法印という坊主が2か月間に都の内だけで4万2千3百余人の屍体を数えた養和の飢饉(1181年)、それからマグネチユード7・4という元暦の地震(1185)と息もつかせず天変地異が都を襲った。この地震について、『方丈記』は
在々所々、堂舎塔廟、一つとして全からず。或は崩れ、或はたふれぬ。塵灰たちのぼりて、盛りなる煙りの如し。地の動き、家のやぶるる音、雷に異ならず。家の内にをれば、忽ちに押しひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。
と記している。これらの天変地異に長明は少しも動揺してはいない。それは長明に無常という覚悟を固めさせただけだ。長明は日本初のポータブル簡易住宅の発案者だという。「方丈」とはそういう家のことだ。
6、神戸中央市民病院
さて須磨へ行けないまま、いたずらに日は経ってゆく。その間私は体に拘っている。こと心臓に関しては一応安定期にあるのだが、ポートアイランドにある神戸中央市民病院で定期検診を受けている。1月26日に心臓エコーの検査予約が入っていたが、震災から10日目で正確な交通情報は分からないが、神戸大橋が破損した人工島は孤島と化してとても行ける状態ではないらしい。2月8日には定期検診の予約が入っていたが、この頃になると、地下鉄やバスを乗り継げば病院まで行けなくはなかった。予約かち外れるといろいろ面倒なので、なんとか行きたいと思って電話で聞き合わせてみると、予約はすべてキャンセルになっているという。入院患者1千人を抱える病院は私の予想を遥かに超えて困難な状態にあった。2階の設備が壊滅して10階が水浸しになり、ガスも水もない状態で、入院患者の転送先を探していた。最先端の医療機器を備えた神戸医療の司令塔のこのような状態は神戸の医療を象徴していた。神戸の病人は一体どうすればいいのか。
一方体内の石の方だが、これは2月2日の検査では順調に下りていたが、2月16日の検査では前回から全く動いていないという。私のかかっている西神戸医療センターはまだ石を破砕する機械がなくて、設備のある病院に紹介しているのだが、今神戸市内には稼働している病院が少なくて、もし石が詰まると、どこの病院に紹介してくれるのだろう。痛まないように祈るだけだ。