7、被災地長田 (写真は長田の被災地)
さて2月5日にやっと長田区蓮池小学校に避難している友人を見舞う。地下鉄版宿駅から山陽電鉄西代駅のすぐ上にある小学校まで歩いたが、沿線の風景は一変していた。家屋ははとんど傾いて一帯に瓦が散乱していた。蓮池は『平家物語』にも登場する地名で、生田の森で敗れた平家の副将軍、本三位中将平重衡は屈強の名馬にのって敗走する。
湊河・かるも河をもうちわたり、蓮の池をば右手にみて、駒の林を左手になし、板屋ど・須磨をうちすぎて、西をさいてぞ落ちたまふ。
疾風のごとく駆け抜ける重衡の目に古代末期の「蓮の池」はどのように見えたであろうか。今蓮池は奇妙に歪んだ空間の中で少し傾いて、全ての活動を停止して静まりかえっていた。その中で動く人の姿は無声映画の映像のようだ。この全体に非日常的な印象はどこから来るのだろう。なんだかペラペラな紙に描かれた絵の世界のようだ。友人夫妻の元気な姿を確認して、そのすぐ南の十年来お世話になっている歯科医院を尋ねる。屋根が落ちて元の医院の姿をとどめるものは何もなかった。この医院の再建はいつのことになるだろう。
さらに南下して駒が林を通り、西に折れて板宿まで帰って来たのだが、延々と倒壊と焼失の瓦礫が続く。戦火の跡かと見紛う焼け野原である。瓦礫の原のあちこちに残る黒焦げのビルの立つ景観はゴーストタウンと呼ぶ他なかった。もうどこがどこだかまるで分らなかったが、記憶に残っている地名は全焼の長田区大正筋商店街、同じ全焼でも菅原市場はテレビで放映され続けたのに、ここの映像はついぞ見かけなかった。それから長田区松野通・水笠通から須磨区寺田町あたりの多分ケミカルシューズ工場と民家の混在地区の圧倒的に無残な焦土を通って板宿駅から帰る。この延々と続く破壊の跡を歩きながら、壊れたのは単に街だけではあるまいという思いに捉らわれる。今度の地震で層屈壊という中層ビルの中程の階層だけが崩れ落ちるという現象が起こったが、あれは非常に象徴的な崩壊の仕方で、日本という国家あるいは文明が神戸という階層で層屈壊を起こしたのではないだろうか。勿論これが起こると、そのビルは全壊取り壊しである。帰りの地下鉄沿線の名谷から西の郊外の震災以前と変わらぬのどかな風景がかえって白々しくにせものめいて見えてくるのが不思議であった。
8、西国街道を歩く (写真上は震災後道路の反対側の歩道に移されて2基に増えた地蔵)
(写真下は厄除け八幡宮への道標)
さて2月11日やっと念願の西国街道を歩くことができた。西国街道は江戸時代の駅路で、大名行列が通った幹線道路と思えばよい。長田神社の鳥居のある5番町7丁目から第二神明の高架まで真っ直ぐ走る片側2車線の神戸明石線(旧神明)がそれである。この昭和30年代に現在の幅員に拡幅された排気ガスの充満する道路にはもう昔の街道の面影を残すものは何もない。しかしよく見ると、この神戸明石線と板宿駅前通りの交差点の南東の角の「シーグラ」と「明治生命」の境界に小さな地蔵がある。コンクリー卜の台に家型の箱に入れられて鎮座している。これこそまさに江戸から生き延びてきたもの、民間信仰に支えられたそれは、地価が高騰し、先住の仏たちに分け与える寸分の土地も借しい経済万能の時代にも、その高価な土地の一隅を占拠して残り続ける。このすざましい近代化の中で地蔵を守り続けるのは日本人のどのような心性なのであろうか。ともあれビルの前にある地蔵は震災から何の損傷も受けずに立っていたが、その箱の扉の片側が閉まらなくなっていた。誰か祀る人がいるのか、花が供えられている。その2軒東の木造の家は倒壊して歩道を塞いでいる。
ここを起点に西国街道を西進する。少し進むと、道の南側に市営住宅群が現れる。まず古い鉄筋コンクリート建ての13、4階の3棟の内の真ん中の棟がガレキとなっている。西側の棟も階段が崩落している。少し進むと新しい市営住宅群が現れるが、全く無傷という感じで立っている。地震は鉄筋でさえ強度の差を測り、弱みを捜し出し襲いかかる。この通りの木造家屋はほとんど倒壊しており、その隙間から今まで見えなかった裏通りの家屋が見渡されるが、そのほとんどが倒壊したり、傾斜している。このあたり須磨区太田町では死者46人という。倒壊家屋が歩道を塞いで車道を歩かねばならない所も多い。太田町5丁目に弘法大師小像があると聞いていたが、すでに須磨寺に引き取られたという。近代化の波に追い詰められて居場所を失う仏たちもあるらしい。さらに西へ進むと、妙法寺川の堰堤の公園にテント村が出現していた。日本で難民キャンプを見ようとは思わなかった。
1月23日現在須磨区には67避難所に19、579人の避難民がいるという。この橋を渡って高架間近の道路の南側の、葬儀社「川嶋本店」前にも地蔵が一体同じように台座の上に鎮座している。これはやや西に傾いている。
神戸明石線は高架に沿って右折するが、西国街道は高架を潜って直進する。車線は変わらないのに、幹線道路でなくなったせいか、急にひっそりとする。高架下から最初の信号で右折して少し上ると「浄徳寺」がある。少し高台にあり、姿のいい寺である。境内には石塔がたくさんあり、6基の一石五輪塔があり、その地輪部分に地蔵尊が彫ってある。もうこういう寺にしか昔の街道の面影は残っていない。しかしこの震災では寺もまた多く倒壊した。ここでも本堂の屋根瓦が全部落ち、鐘楼が倒壊し、石の階段がひび割れている。
さら西国街道を進むと、交差点に差しかかるが、広い片側2車線の道は左折して直進道と右折道は狭い一方通行の道である。この近代と前近代の交錯する交差点の東北の角にさくら銀行があり、その前に「厄除八幡宮」「右多井畑村迄三十三丁」と刻んだ2本の道標が立っている。このちぐはぐな街角でこの道標は確かな存在感で昔の街道の雰囲気を辺りに敷き散らしている。
直進すると月見山商店街に入る。須磨区内には西国街道の古い家並みが残っている所はどこにもない。大寺院は別として日本の都市庶民の木造家屋は思いの他短命である。江戸の建物などどこにも残っていない。そして今度の震災は古い民家を狙い撃ちに倒壊させた。ここ月見山商店街もはとんど全ての店が全壊取り壊しになるだろう。『方丈記』の冒頭近くに次のような文がある。
棟を並べ、甍を争へる、高き、いやしき人の住まひ世々を経て、尽きせぬ物なれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或は去年焼けて今年作れり。或は大家ほろびて小家となる。
これレトリックだけの美文かと思っていたが、現実を踏まえたリアルな写実文であった。現代日本も長明の時代と同様に貧しく無常であった。海辺の須磨の旧市街地は古い下町で、圧倒的に木造が多くて、鉄筋の中高層の建築物は稀にしか見かけない。この度の震災では古い木造家屋は軒並み被害を受けた。地震保険の3度傾いた家は全壊という基準からすると、このあたりの家ははとんどが全壊ということになる。須磨の被害はこの西国街道沿いの山と海に挟まれた狭い旧市街地に集中していて、長田の焦土や三宮の高層ビルの倒壊のような衝撃性はないが、被害が内向して傷が深い。日本の家は崩れ易くて観光資源として蓄積されることはない。この須磨区内ではただここだけ辛うじて西国街道の面影を残していた月見山商店街が消滅する。
9菅原道真の足跡
商店街の終わる所で西国街道は離宮道に交差する。交差点を越えると民家になる。このあたりも風景が一変している。どの家も塀が倒れて家々は裸で立っているような感じだ。その裸の家も辛うじて立ってはいるがほとんどが取り壊されることだろう。交差点から最初の南へ下る細い車も入らないT字路の入り口に小さな石標があり、字が薄れて読めないが「綱敷天満宮」への道標らしい。それが根っこから抜けてゴロリと道端に転がっている。その石標を左折して細い路地を国道二号線近くまで行くと、菅原道真が太宰府へ行く途中に休んだという「綱敷天満宮」がある。道真は太宰府へ海路を取ったが、途中嵐に会い、和田岬に上陸して山陽道を須磨へきた。道真はその足跡はすべて神地ならざるはない不思議な男であり、彼が足を止めた所はすべて天満宮と化した。藤原氏によって都から追放された菅原道真の怨霊は彼の死後都を襲い、その崇りは疫病となって藤原氏に取りついた。天満宮とは道真の怨霊の鎮魂の場所である。それにしても日本全体を覆うほどの巨大な怨霊が存在したのか理解できない。古代日本人が抱いていた心の闇のスケールが腑に落ちない。今度の震災の死者はどのような怨恨を残したのか。そして生者はそれをどのように鎮魂するのであろうか。
元の石標まで戻って少し進むと道の北側に旧前田家の敷地があり、この間まで須磨警察署があったが、今は移転して更地になっている。ここに道真に水を献上したという「菅の井」と呼ばれる井戸がある。それから道真の「お手植えの松」という根っこがある。井戸と松の根は彼の足跡を示す定番遺跡である。
道真の時代には西国街道は山陽道と呼ばれていたが、須磨の鉢伏山が海に突き出ていて「明石の櫛淵」と呼ばれる難所で通行不可能であったから、道は迂回して須磨の千守川に沿って北上して須磨寺前を通り、離宮公園の前から多井畑を回って南下して塩屋に戻った。道真はこの「古山陽道」を通って西に向かった。