10、藤原行平流謫の地
 私は離宮道から古山陽道に入ることにする。旧前田家から引き返して離宮道の松の街路樹の道を北上して少し歩いて山陽電鉄の踏切を越えるとすぐ村雨堂がある。これは藤原氏によって都から疎外された在原行平が須磨に流謫した時の愛人あるいは現地妻「松風・村雨」の姉妹が行平が都へ帰った後、出家して住んだ庵の跡という。行平の須磨の歌

  わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつわぶと答へよ

は名高くて、歌枕須磨の成立に大きな役割を果たした歌である。歌枕とは和歌に歌われた名所で、当時なかなか現地に行けない都人たちが歌によってその地を知った。「藻塩たれつつ」とは海草に海水をかけて、それを焼いて塩を作る原始的な製塩法で、当時はもうこのような非能率的な製塩法行われていたかどうかは疑わしい。それは「わび住まい」を強調するためのレトリックである。鄙びた海辺に立ち昇る藻塩を焼く煙という辺境の景観に托して須磨は歌枕になった。歌枕須磨は都を追われて流離する男のイメージを背負って成立する。
 村雨堂は行平の優雅も松風・村雨の哀切もなく、見る影もない荒涼の遺跡である。五輪塔と行平が烏帽子と狩衣をかけて姉妹への形見としたという怪しげな木の根「衣掛の松」があるだけである。ここは玉垣が歩道に崩れれ落ちて散乱していた。ここから北上して離宮公園前を通って多井畑に至ると松風村雨の墓だという小さな五輪塔がある。地元の人が毎日掃き清め花を祀り、昔の街道の情趣が残っていて、二人を忍ぶに相応しい地である。ここには昔の古い街道の情趣が残っていた。そばに多井畑厄神がある。播磨と摂津の国境の神であるという。この多井畑に至る道が古山陽道であり、ここから南に下りJR山陽線塩屋駅近くの菅公橋近くで国道2号線(西国街道)に合流する。
  現在の須磨を歩いてみると、行平伝説の遍在に驚かされる。「行平町」を初めとして「松風町」「村雨町」「衣掛町」から「稲葉町」まである。これは百人一首で著名な行平の歌 

  立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かばいま帰り来む

の「いなば」を因幡の国ではなく、松風村雨との別れの歌と我田引水的に解釈して「稲葉町」を創出したのである。行平が月を見たという「月見山」まで作り出したものだからもう須磨は行平だらけとなる。これは勿論近代人の物欲しげな文学趣味による命名で、大正から昭和の初めにかけてつけられた町名であって、行平の事跡とは何の開係もない。しかし行平伝説の名を冠した町々はことごとく被災した。

11、須磨寺(倒壊した須磨寺蓮生院)
 このあたりで行平に別れて再び西国街道に帰ることにしょう。離宮道との交差点を西に進み須磨寺参道との交差点を右折して山陽電鉄須磨寺駅の出口すぐ南側に「平重衡捕らわれの跡」の石標と地蔵がある。蓮池を疾走した平重衡は乗馬を射られてここで力尽きたらしい。この石標はいかなる伝承によるものか、『平家物語』はもっと南の海辺であったと語る。ここから須磨寺南店街を北上する。坂道の両側の商店街も損傷がひどい。まだ二、三軒の食堂以外の店はシャッターを下ろしたままだ。半壊の店頭に台を出して弁当売っている店もある。今はやりの被災地ウォッチヤーは須磨にはいない。私が只一人気楽なウォッチャーらしいが、それでも被災地でものを食う気分にならない。
 真言宗須磨寺派本山「上野山福祥寺」の開創は仁和2年(886年)である。中門を潜り、仁王門を渡ると両側に塔頭「蓮生院」と「桜寿院」が倒壊している。この日桜寿院のガレキの撤去作業が始まっていた。蓮生院の大きな屋根がまるで縄文時代の縦穴住居のようにその形を残したまま直に地面を覆っている。ここの住職がその時圧死した。今から399年前の「慶長の大地震」でもこの寺の塔頭は倒壊したという。「元暦の大地震」から400年後に「慶長の大地震」が起こり、そのまた400年後に今度の大地震が起こったのだから、大地震は400年に一度やって来るらしい。とすると私はもう生涯地震に会うことはない。例えもう一度地震に見舞われるにしても運を天に任す他あるまいと思っている。地震は突如襲って来るもので防ぎようがない。あれ以来地震の予知ということが口うるさく言われているが、例え予知できたとして、それが何か役に立つのだろうか。また口を揃えて防災防災と言い始めている。まるで地震の災害を防げるかのようにはしゃいでいるが、あの瞬間、枕元に懐中電気を置いて寝ていても落下物と一緒にふっ飛んで役に立たなかったというような話を何人もから聞いた。良寛ではないが「震災に逢ふ時は逢ふがよろしく候」ということだ。とはいうものの毎日やって来る余震は誠に気味悪い。一度倒れた本立の下で寝るのも気持のいいものではない。我が家の家屋の基礎と外壁の土の裂け目、玄関へ上る階段のひび割れも余震の度に大きくなって行く。
 この度の地震ではこの須磨寺は身元不明の遺体の安置所になっていたが、昨日(2月10日)最後の遺体が引き取られたという。この寺は源平の戦場一の谷の間近で、『平家物流』の「敦盛最期」の段で語られる平家の美少年平敦盛の首塚がある。青葉の笛と名つけられた名笛をこよなく愛した少年は戦場でも手放さず、それを身につけたまま討たれた。須磨寺にはその「青葉の笛」と「敦盛首洗池」と敦盛の首実験をした「義経腰か松」と「敦盛首塚」がある。首塚は今度の震災で上部の石が落ちたというがすでに修復されていた。「慶長の大地震」では首塚は800メートルも離れた海辺まで転がったと寺伝は伝えている。
 私はこの観光記を構想した段階では芭蕉の『笈小文』を道案内として西国街道を歩いてみようと思っていた。芭煮は「笈の小文」旅の最終地に須磨を選んだ。そして須磨寺で一句詠んででいる。その句碑が境内にある。

  須磨寺や吹かぬ笛聞く木下闇

芭蕉は中世の須磨寺の木下闇の中に蹲って、じつと平家の美少年の笛に聞き入ったのである。すると貴族文化の中で育った優しい少年の戦場での死が不当な運命に思われてならなかった。現代の最後の不明遺体の主もまたこの異郷の地で何と不当な運命に遭遇したことであろう。過去から逃亡すべくこの都会の中に紛れ込んで行方をくらまして生きていたこの不明遺体の主は、「NHKニュース7」が身元捜しに乗り出して三重県津市に住む妻を見つけ出した。地震が彼の身元を暴露してしまったのである。後日(3月2日)「朝日新聞」はこの人を「25年前に姿を消した夫は神戸で圧死していた」というタイトルで大きく取り上げていた。この人が家を出てから25年間何をしていたかまだ分かっていない。妻は「神戸の街が落ち着いたら、また尋ねたい。夫の25年の旅路を分かるところまで朔ってみたい」と言っている。須磨寺の住職はどんな文学趣味の持ち主なのか境内には20に余る文学碑がある。山本周五郎の碑もある。これは関東大震災で須磨に避難した周五郎がその体験を描いた出世作『須磨寺付近』の一部を刻んだものである。須磨寺には戦乱と震災の気が漂っている。

12、須磨の関(写真は右側の玉垣が崩れた「関守稲荷神社」)
                                           
                               再び西国街道へ返って西進する。須磨寺交差点を越えて相変わらず商店や住宅の立ち並ぶ狭い道で、倒壊や半壊の家並みが続く。道は西南に向かい緩やかな下り坂となり、国道2号線に合流する手前の信号のない交差点に「長田宮」という石標があり、側面には「川東左右関屋跡」と刻まれている。ここから右折して北上する道が千守筋で、古山陽道に当たり、須磨寺前を通って田井畑へ通じている。この石標の左右に須磨の関があったらしい。だが関所を指し示す手かかりになるようなものは一切ない。国道へ出てすぐに右折すると「村上帝社」がある。そこをさらに北上すると「関守稲荷神社」がある。ここが須磨関所跡だと言われている所である。山陽道からはずれて何の関所であろうかとは思うものの、この稲荷神社にはそれらしい仕かけが一応揃っている。『枕草子』に「関は逢坂、須磨の関」と書かれた名高い関所の情趣を残すものとてないが、

  淡路島通ふ千鳥の鳴く声に幾夜寝ざめぬ須磨の関守

という有名な歌を刻んだ石碑がある。須磨を知らない都人の詠んだものであろうが、当時の人の須磨のイメージをよく表している。ここも地震前とはどこか違っている。五輪塔などは修復したのであろうが、回りの石垣が崩れ、入り口の道は瓦が散乱して足の踏み場もない。
 また国道二号線(西国街道)へ返ってみると、須磨駅前は古い木造建築が多くて傷みが激しく、風景はどこか荒涼としている。このあたり震源地の淡路島の野島断層に続く須磨断層が走っているらしい。私の体力では今日はここまでが限界らしい。一の谷方面は後日出直すことにする。

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