4、ブラチスラバ(スロヴァキアの首都)              3ページ
写真上はプラチスラバ市街、下はブラチスラバ城)
        
 
チェコとスロバキアは長らく同じ国家を形成していたが、ソ連圏崩壊後、分離独立した。分離後スロバキアはここブラチスラバを首都として独立した。プラハ城とブラチスラバ城を比べてみると、その国力の差は歴然としている。ブラチスラバ城は「逆さテーブル」と言われるように四隅に尖塔を持った四角な城で、城というより要塞という感じでドナウ川を見下ろす丘に立っている。この素朴でいかにも堅牢という感じの城、その形態ゆえに「逆さテーブル」と蔑称される城を私は何だか懐かしい気持ちで眺めて飽きなかった。この城から見るドナウの流れもまた美しい。
 スロバキアという小国はチェコとともに長らくハンガリー帝国の支配下にあり、ハンガリーの首都であったブダペストがトルコに占領された後、三世紀にわたってハンガリーの首都であったという。城の近くに聖マルチン教会があり、何代かのハンガリー王の戴冠式が行われたという。そこから少し進むと旧市庁舎があり、そこを中心に広場があるのは他のヨーロッパの都市と同じである。しかしこの広場はプラハに比べてはるかに小さく、建物も二階、三階、四階と不揃いで貧相である。しかしこの古い街は中世的雰囲気を残していて、その石畳を歩いていると近代ヨーロッパの都市とはまた別の情緒がある。私はこの旅の中に付録のように挟まれた小都市が気に入った。いかにもヨーロッパの辺境という感じで、あるいはヨーロッパから逸脱したのではないかとさえ思われてくるのであった。
 ここのガイドのスロバキアの青年は日本語が話せず、彼の英語のガイドを添乗員氏が翻訳するのだが、この街はあらゆる時代のあらゆる建築様式が混在していて、その早口の説明が建築様式まで及ぶのだからもう何が何だか分らなくなる。後で添乗員氏から聞いた話では彼は熱烈な反チェコ主義者で、ずっとチェコ批判を繰り返していたという。チェコはスロバキアにとっては大国で、いつも差別と収奪を繰り返して来たと彼は批判したという。添乗員氏がカットしたその部分をもし訳したら、このガイドは破格ではあるが、もっと生気のあるものになったのではなかろうか。チェコを見てスロバキアを見ると彼の不満がよく分る。スロバキアは遅れた小国であるが、小国の首都というのは健気で宜しい。ブラティスラヴァ!私はこの詩の一節のような美しい響きを持った街が気に入った。

5、ウィーン
(写真は旧市街)
 ヨーロッパの中世都市はすべて城郭をもっていたという。ウィーンも城壁に囲まれた都市であった。この東ローマ帝国の首都はキリスト教圏の東の端に位置する故に、異教徒オスマントルコの攻撃から守るため厚くて高い城壁を築いていたという。十六世紀の最初のオスマン帝国の襲来以降、城郭は補修され、堀が掘られ、さらに斜堤までもつくられたという。。ついに一八五七年には城壁が撤去され、その跡にリング(環状道路)が設けられた。これが中世都市から近代都市への転換点である。幅員五十六メートル・全長四キロのリングこそウィーンの代表的建築が立ち並ぶヨーロッパでも最も優美な幹線道路の一つである。リングを見ずして何のウィーンかと思うのに、オペラ座で観光下車しただけで、私たちのバスはリングを二周もしたかと思ったら、もう郊外へと舳先をねじまげてシェーンブルーン宮殿へ向かうのであった。

6、ブダペスト

(写真上は王宮から見たドナウ、対岸に国会議事堂が見える。写真下はドナウイベント)
ブダペストは「ドナウの薔薇」とか「ドナウの真珠」と呼ばれるドナウの岸辺で最も美しい街であるという。ドナウのナイトクルージングがこのツアーのハイライトであった。ライトアップされたドナウ、日本のライトアップのようにどぎつい光で所構わず照らしまくるというのではなく、静かな微光の中の点景として風景が現れる。ドナウに掛かる橋の中で最も美しいといわれる鎖橋のアーチ状の光の輪の下を船はくぐり抜けると、ブダの王宮
が闇の中から深い森のような陰影を帯びて浮かび上がる。ペスト側の国会議事堂が昼間見た豪奢な面影をとどめて、夢幻のあわいにその優美な姿を現わす。これらの光の衣装をまとったものたちは、この世のものとは思えぬ姿で中空に浮く。遠い遥かな異郷感はドナウの流れから立ち上ってくる。昼の光の中では今も大戦の弾痕や汚れが目立つブダペストの街はほのかな微光を浴びてドナウの悠々たる流れに神秘的に浮かび上がる。

ブダペストからドナウを遡上すると、「ドナウイベント」というドナウの曲がり角がある。西から東へと流れてきたドナウがほぼ直角に曲がって南下する。対岸はスロヴァキアである。ここもドナウの見逃せない観光ポイントである。
 
7、帰路

 帰路はハンガリー空港からアムステルダム空港を経由しての帰路、はるばると来ぬるかなと旅を反芻する。旅は日常からの逃亡だと言われるが、逃げるからにはできるだけ遠くへ逃げよう。彼方へ、できるだけ彼方へ逃亡しよう。しかし私たちの逃亡はパックツアーの指定されたコースのままに日常という荷物をパックされて全部持って来たような気もするのだ。持って来たのなら捨てて帰ればいいのだよ。そう、古い自分なんざ捨てればいいのさ、どんどん捨てて、全部捨てて帰ればいいのさ、なんて調子のいいこと言い立てて、何一つ捨てることなどできないケチのくせして。捨てる暇もなく私たちは引き回される。かつての東ローマ帝国、ヒットラーの制圧した国々を、徒党を組んでのし歩く。一日一都市なんてべらぼーな観光があるものか。目を皿にしての観光乞食、がつがつ意地汚く見て歩くが、目には速度、心には容量というものがあって、たちまち風景は目に余り、心の吃水線を超えてあふれるのであった。それでは写真にでも撮って、帰ってからゆっくり見るか。いっそ、このまま帰らずに住み着くという手もあるのだよ、そう、ロングステイというものも一度はしてみたいね。語学がね、そう言葉が弱いね。若い頃、外国語の一つも身につけなかったのは、悔しいねえ。Tさんのように、六十過ぎてから語学研修ロングステイというのはどうかね。Tさんのまねはできないよ。まあ、次はせめてもっと目と心にやさしい旅をしようよ。これは若者の旅だよ。でもツアーの皆さんはほとんど中高年だよ。日本の中高年は若いねえ。日本を脱ぎ捨てている旅の達人もいたねえ。Mさんだね。あの人、漂泊者だねえ。諸国遍歴だよ。ああいう老後の過ごし方もいいねえ。あの人金持ちだよ。肝心のことを忘れているねえ。今何時かね、現地時間?日本時間?今この真下の時間さ。どこを飛んでいるのかね。だんだん眠くなってきたね。(1995・8・31)

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