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1、ベルリン=森鴎外「舞姫」の舞台
(写真上は戦勝塔から獣苑(ティアガルデン)を望む。その果てにブランデンブルク門がある。左下はブランデンブルク門、
写真下は戦勝塔=凱旋塔)
午前の観光でブランデンブルク門を見た。ベルリンの壁が崩壊した日、その解放を祝福してどんなに多くのベルリンの市民が押し寄せたことか。あの世界を驚かせた映像が今眼前にある。しかし私にはこれは森鴎外の『舞姫』の舞台でしかない。
さて昼食をチィアガルテンの一角のレストランでとり、午後のフリーは一度ホテルへ帰るツアー一行と別れ、『舞姫』の舞台である「戦勝塔」を目指す。『舞姫』は明治の青春小説である。遂に陸軍軍医総監まで出世した明治のエリートの留学記念碑たるこの小説は高校国語教科書の定番で、多分ほとんどの人が高校時代にこの小説を読んでいる。私は『舞姫』の主人公豊太郎がその愛人エリスに出会う場面から歩き始める。
午前の観光でブランデンブルク門を見た。ベルリンの壁が崩壊した日、その解放を祝福してどんなに多くのベルリンの市民が押し寄せたことか。あの世界を驚かせた映像が今眼前にある。しかし私にはこれは森鴎外の『舞姫』の舞台でしかない。
さて昼食をチィアガルテンの一角のレストランでとり、午後のフリーは一度ホテルへ帰るツアー一行と別れ、『舞姫』の舞台である「戦勝塔」を目指す。『舞姫』は明治の青春小説である。遂に陸軍軍医総監まで出世した明治のエリートの留学記念碑たるこの小説は高校国語教科書の定番で、多分ほとんどの人が高校時代にこの小説を読んでいる。私は『舞姫』の主人公豊太郎がその愛人エリスに出会う場面から歩き始める。
ある日の夕暮れなりしが、余は獣苑を漫歩して、ウンテル・デン・リンデンを過ぎ、我がモンビシュウ
街の 僑居に帰らむと、クロステル巷の古寺の前に来ぬ。
私たちは『舞姫』の舞台をまずこの「獣苑」から歩き始めることにした。
私は今まで「獣苑」を「動物園」だと思い込んでいた。念のために某社の教科書を調べて見ると、その頭注にはいまだに「獣苑」は「動物園」と出ている。「獣苑」とはティアガルテンの訳であり、ティアガルテンは壮大な森林であった。その森林のなんという果てしなさ、都心にこれだけの遊びの空間を持つ都市のゆとり、もし阪神大震災並の地震が襲ったとしても、この都心の公園で全被災者を収容できるであろう。桑名靖治氏の『国語通信』(1995・NO3)によると、
ティアガルテンは、その一帯がかつて中世選帝侯の「狩り場」だったことによる地域名・公園名である。
ということだ。「獣苑」が動物園ではエリスと会う場面はともかく、エリスを捨て去る場面で、錯乱した心を抱いて「獣苑の傍ら」で冬の夜、ベンチに腰を下ろして数時間死んだように動けなかった情景は理解できないのではなかろうか。その森林を貫いて「6月17日通」と呼ばれる一本の道が貫通している。これは西ベルリン内にあり、1953年6月17日の東ベルリンの反ソ暴動の日を記念して名付けられた道である。
この都心の緑の中の一本道、緑以外の何もない果てしない一本道を歩く豊かな放心、この贅沢、森林以外の何ものでもない空間を抱え込んでいるベルリンという途方もない都市は新しい都市のありようを示唆していないか。戦勝塔(凱旋塔)からその道を歩くとブランデンブルク門に至る。『舞姫』には
遠く望めばブランデンブルク門を隔てて緑樹枝をさし交はしたる中よ り、半天に浮かび出たる凱旋塔の神女の像
と書かれている。主人公太田豊太郎はウンター・デン・リンデンに立って振り返って凱旋塔(戦勝塔)を見たのである。私もブランデンブルク門を過ぎて、ウンター・デン・リンデンに入る時、凱旋塔を振り返ってみたが、余りに遠くて塔上の女神の像は見えなかった。
菩提樹下と訳するときは、幽静なる境なるべく思はるれど、この大道 髪のごときウンテル・デン・リンデンに来て、両辺なる石畳の人道を行く隊々の士女を見よ。(中略)かれもこれも目を驚かさぬはなきに、車道の土瀝青の上を音もせで走るいろいろの馬車、雲に聳ゆる楼閣の少しとぎれたるところには、晴れたる空に夕立の音を聞かせてみなぎり落つる噴井の水、
(写真は旧市庁舎
ここから前文「遠く望めば」の引用に続くのである。つまりは『舞姫』に描かれているウンター・デン・リンデンとはリンデン(菩提樹)の生い茂る大道で、車道には馬車がひしめき、歩道にはアベックが溢れていたというのだ。前田愛の『都市空間のなかの文学』によると
幅員198フィート(約60メートル)に及ぶウンテル・デン・リンデンの大通りは、4列の菩提樹を境に 歩道・車道・騎馬道に区分されていた。このころの東京で車道と歩道を街路樹で分けている通りは銀座 の煉瓦街だけで、その幅員は12間(72フィート)にすぎなかった、ウンテル・デン・リンデンの3分の1の規模ということになる。
幅員は現在と全く変わらない。これだけの幅員は当時としては驚くべき広さで、しかも、車道の舗装は土瀝青であった。いまも東ヨーロッパの都市のほとんどの道は石畳だから、いかにベルリンは「ヨーロッパの新大都」であったかが分かる。ヨーロッパの後進国プロシャがこの首都建設に込めたただならぬ意気込みが現れている。ウンター・デン・リンデンは戦火で破壊されて戦後すぐ原形のままに復元されたという。高さの揃った中層の街並で、「雲に聳ゆる楼閣」と書かれているが、もちろん摩天楼なんかではなく、当時の日本人にはそう見えたというに過ぎない。そこに鴎外の体験したカルチャーショックの大きさが示されていた。それにしても破壊されたベルリンを元の形そのままに復元修復するというドイツ人の情熱は一体何に根ざしているのか。古い文明の上に新しいものを積み重ねて継承発展して行く西欧文明は、一つの絶対の規範に行き着いたのではなかろうか。その規範を近代と呼ぶのではなかろうか。それはやはり石という素材に関わる点が大きいだろう。私たちの木という素材は破壊されると何も残らない。継承ということは起こらない。いつもゼロからの出発だ。だから私たちには近代は成立しない。
(写真はテレビ塔からのシュプレー川を望む)
こうしてベルリンは復元されることによって規範を受け継ぎ、現代都市へと再生して行くのである。しかしここが東側にあったこともあって、復元修復されたとはいえ、ウンター・デン・リンデンの昔日の繁栄は帰らなかった。ウンター・デン・リンデンは人影まばらで閑散とさびれていた。ともかく私は豊太郎に倣ってウンター・デン・リンデンを歩き、豊太郎が学んだ「自由な大学の風」と書かれている「フンボルト大学」を見た。そしてシュプレー川を渡ると、豊太郎がエリスと出会う「クロステル巷の古寺」に至る。古寺のモデルはベルリン最古の教会であるマリエン教会といわれている。この界隈はエリスの住んだ旧ベルリンの「狭き薄暗き巷」の面影は全く残っていないが、マリエン教会は豊太郎にとって、
この三百年前の遺跡を望むごとに心恍惚としてしばしたたずみしこと、幾たびなるかを知らず
と彼を立身出世の呪縛から解き放ち、人間本来のやさしさに立ち返らせる懐かしい場所であった。私はマリエン教会に旧ベルリンの残像を垣間見た。マリエン教会のすぐ側に東側の政権のシンボルといわれたテレビ塔が聳えている。ここはベルリン観光の一つの目玉で長い行列が出来ている。そこからの展望は素晴らしく、ベルリンを一望できる。この展望台から今歩いて来た道を確認する。遥か彼方にティアガルテンの森が広がっている。ここで四方の写真を撮る。帰国後、写真と地図を付き合わせて、私たちの歩いたベルリンの足跡を確認することになる。未知の都市を知るにはまず高みからその都市を展望せよ。
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