2、ドレスデン 2ページ
(写真上はツウィガー宮殿)(写真下はやっと復元作業に取り掛かった聖母教会)
ベルリンからドレスデンへの道はバスでアウトバーンを走るのだが、そのアウトバーンたるや私たちのイメージしている無制限高速道ではなく、ガタビシと車体のきしむで凸凹道で、制限速度70キロなんていう標識が出ているのには驚いた。東側は貧しく、道路に金をかける余裕がなかったらしい。アウトバーンの両側は森林地帯が続き、ヨーロッパの辺境へ分け入って行くはるかな旅路という感じがする。
ドレスデンはかつてのザクセン王国の首都であるという。私はこの都市については全く無知である。私は何の用意も期待もなしにドレスデンに入った。
ところがツウィンガー宮殿は壮大でドイツ南部の小国ザクセン王国が思いがけなく豊かな国であったことを知らされる。ツウィンガー城の回廊をめぐているうちに中世の迷路にはまりこんだ心境になる。このバロック建築の傑作と言われる城はやはり第二次大戦でほぼ完全に破壊されたが、戦後たちまちに復元したという。私はヨーロッパの建築は石でできているから、残るのだと思っていたが、そうではなく彼らの文化遺跡に対する揺るぎない信頼、すざましい執着がそれを残して行くのだと思い知らされた。彼らはそれを何十年あるいは何百年かけて築き上げて行く。その持続力は私たちの想像を超える。それは完成された永遠を目指している。破壊とか消滅ということはあり得ない。これはやはり素材の問題ではない。意志の問題だ。持続への意志の問題である。考えてもみるがよい。日本の戦後の困窮時に破壊された文化遺産の一つでも復元したであろうか。阪神大震災で崩壊した文化遺産をどう復元しようというのか。ドイツ人の食うや食わずの時にも文化を忘れない執着は一体何に胚胎するのか。例えばマルチン・ルター像がある聖母教会は未だ廃墟のままで、やっと復元作業に取り掛かったところだ。かつてこの教会を作っていた煉瓦がその日に備えて集められ保存されている。かつてバブルの日、ある日本企業が再建の資金援助を申し出たそうだが、市民の拠出金で再建をしたいからと断られたという。文化は市民のものなのだ。日本の市民はまだ文化まで手が届いていない。
3、プラハ
(写真上は旧市庁舎広場、下はカフカの家)
プラハはボヘミアの首都として中世以来の長い伝統のある都市で、「黄金のプラハ」とか「百塔の街」とか呼ばれる美しい街である。私たちはまずプラハ城を
観光した。城は何の威厳も威圧感もなく、近代的オフィスといった感じの端整にして瀟洒な四階建てである。この城は重厚さに乏しく、ライト感覚のもっぱら統治のための王宮というたたずまいで、ブルタヴア川を見下ろす丘に建っている。城はその狭い中庭に不釣合なほどの偉容でそそり立つゴチック様式の聖ビート教会を抱えている。イジー教会という白い教会も聳えている。この城と教会の、俗と聖との、地に伏すものと天へ聳えるものとのあまりにも際立ったアンバランスを私は幾度振り返って見たことか。それはプラハのあちこちから眺めるこ
とができる不思議に心そそる景観である。
城内には昔、城の召使たちが住んでいて、後に錬金術師が住んだが故に「黄金小路」と呼ばれている小家の密集する路地がある。今、その石畳の路地の古家がそのまま土産物店となっている。それは誠に懐かしい中世的世界の現前のようにたち現れる。その一角にカフカが一時小説を書いていたという家がある。私は作家が住んだ家というような文学遺跡は文学とは無縁のものと思い、プラハでわざわざカフカの家を探す程の文学趣味は持ち合わせていない人間だと思っていたが、こうしてカフカの家を目にすると、なんだか望外の幸運に巡り合ったようなうれしさを感じ、プラハ大学日本語科の学生である現地ガイドの女性とカフカの家の前で記念写真を撮って貰ったりする。
(写真下は街頭演奏、プラハでは音楽も大道芸)
プラハの街はヨーロッパの典型的な街並の特徴を備えている。高さの揃った建物が整然たる区画のストリートに面して建っている。道はすべて石畳で舗装されている。午後はフリーでこの美しい街を心行くまで楽しむことにしていたのに、添乗員氏が買い物に案内するというので、少しだけそれに付き合うことにしたのが間違いのもとで、その店たるやどこにあるのか、プラハはこんなにも広い街なのかと呆れるほどに暑い陽射しの中を歩きに歩いて、ほとんどくたばってしまうころにやっと辿り着くというとんでもない買い物ツアーになってしまった。途中でしまった!と気付いたがもう時期を失して、最後まで付き合うはめになってしまった。そのガーネットとかボヘミアングラスとかが並んでいる店で私は疲れて一つしかない椅子を独占して座り込んでしまった。その時ショーウインドウを覗き込んで商品の品評に夢中になっている一群の日本人観光客の中へ、男の手がさっと延びて来て、妻のハンドバックを本人も気付かぬほどにあざやかに詮索した。間髪入れず、その男の手をわが添乗員氏がむんずと掴むという早業を披露した。子連れ狼ならぬ、子連れ掏りというものらしくて、旅行中耳にたこができるほど注意されてきた事が眼前に出現したのだ。妻も用心してバッグの中には大したものは入れておらず、パスポートと現金は私がしっかと腹に巻き付けていたのだ。何がなくとも、これさえあれば旅は続く!観光にもなにがしかのリスクが伴うのは致し方のないことであり、事に会う時はそれはそれでよいではないか。風景も時として反逆することがあるだろう。風景の背後から生身の人間が躍り出てくることもあろうというものだ。ともかく私たちは観光という安全な見物席から滑り落ちる。
その店から出てしばらく歩いていると今度は子供を連れた女に出会う。添乗員氏は今営業中の二人組だとい
う。大人が取ったものを子供に渡して子供が人込みに走り込むのだという。しばらく行くとまたその母子二人組みに会う。二人ともみすぼらしい身なりをして観光客の間を浮遊するように歩いている。私たちは一体何の観光しているのであろうか。私は添乗員氏に導かれて観光の裏側を見てしまったことにかすかな後悔の念が湧く。私は観光客として美しいプラハ、黄金のプラハを見に来たのである。私は黄金のプラハに帰るべく添乗員氏に別れて再び旧市内広場に立つ。でも私はその広場で演じられている少女の曲芸に、彼女の強いられた悲惨を見てしまう。彼女の芸に拍手する心を失い、プラハはみすぼらしい都市に反転する。私は旧市庁舎の屋上に登ってプラハの街の展望を楽しむ予定だったが、もうその元気が次第に萎んで行くのをどうしようもなかった。
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