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4、スイス
(写真はアルプスの村)
ドイツはほとんど山らしい山は見当たらない農業国という感じだったが、スイスは山国である。山と言ったってこれは世界のアルプスだから、見上げる山容のスケールは圧倒的だ。そのアルプスに登山電車網を張り巡らせ、一気に人を3000メートルを超える別世界に運び上げるのだ。スイスの観光のスケールには度肝を抜かれる。なんせこの電車が出来たのは一九一二年というからスイス人は自国の生存の条件を早くからしっかり見据えていたのであろう。ともかく峨々と聳える山があり、その山へ登山電車が登って行く風景は圧巻だ。ともかくその自然のスケールの巨大さ故に、自然に挑む人間の健気さが現れていて、すがすがしい。決して自然破壊の傲慢さというようなものはなく、人間もよくやるなあという感じで登ってゆくのだ。登山電車そのものが絵になるのだ。ともかくスイスには山しかなく、その裾野の牧草地にアルプスの少女ハイジたちが羊を飼っている。ハイジたちにはハイジたちの苦労があるにせよ、観光客にはまさに牧歌的なユートピアの世界に見える。この美しい山国でしばらく滞在して、命の洗濯をしたいものだという夢想を掻き立てられる。しかしスイスは貧しい山国で、かつて男達は傭兵としてヨーロッパの国々に出稼ぎに行くしかなかった。フランス革命の時もフランスの貴族に雇われて多くの戦死者をだした。ルッツエンにはその戦死者たちを痛む記念碑「嘆きの獅子」のレリーフがあった。ただただ高いだけでどうしようもないその山を見せ物として活用するしかなかったのである。なんという卓抜なアイデアだろう。その山々に張り巡らされた登山電車に乗って私は自己最高の3478メートルに登る。ユングフラウヨッホである。一気に白銀の世界の人となる。ユングフラウヨッホは下から見上げた時遥かな白銀の頂上近くになにか建造物らしきものが見えたが、あんな高い所に不思議なものがあるものだ、まさかあんな高くまで登るのではあるまいと思っていたのに、まさにその4000メートルのアルプスの世界のただなかに登り着いていたのだ。駅の展望台は五階建ての立派な建物である。コーヒーを売っているがどんなに高いかと、スイスフランの持ち合わせが少なくて用心していると2,8フランであるという。日本円で220円だ。カップにソーサーまでついてなかなか美味しい。日本では少し高所に登ると、とんでもない値段がつく。さすが観光立国スイスは見上げたものだ。

 このような数カ国周遊の場合は両替が大変だ。その国の紙幣は残っても次の国でまた両替出来るのでいいのだが、硬貨はその国でしか通用しないから使いきらねばならない。スイスでは最後の土産物店でうまく使いきったと喜んでいたら、最後にトイレ休憩があり、有料トイレの代金二分の一(約四〇円)フランも残っていない。これには参った。あまりの完璧主義も考えもので、少しは記念にとでも思って硬貨も残して置くのだった。悔やんでももう手遅れだ。しかし本当にこういう時はどうすればよいのか。そっとお教えしますと、さすが日本の女たち、トイレのドアを締めると硬貨(二分の一フラン硬貨以外は受け付けない)がいるので、次の人がドアが閉らないように手を差し入れて待っていて順番に入場したそうです。それから男の中には木陰で用を足した勇敢な人もいたとか聞きました。

5、パリ(写真上ははシャンゼリゼ)(写真下は夕暮れのモンマルトルの丘・サクレクール寺院)
 パリは美しい町である。花の都という俗な言葉も嫌味なくよく似合う。シャンゼリゼは建物の博物館の中を歩いているような気がした。コンコルド広場からシャンゼリゼに入って行く入り口に三つの宮殿が優美なたたずまいで並んでいて、まずちょっと写真でも撮っておこうかと足を止めるが、プチパレとグランパレの横にあるデクヴェルテ宮殿?の壁面のレリーフの見事さに思わぬ時間を取られる。シャンゼリゼに入ると建物どれもみな入り口の宮殿に勝るとも劣らず、一つひとつの建物が素通りを許さない凛とした気品を放っていた。一つひとつが絵になり、全体が調和して優雅極まりない都市美を作り上げていた。どの建物もそれ固有の美しさに輝き、それらが集合してストリートを形成し、ブロックを形成し、パリを形成していた。私は都市がこれほど
美しいとは思ってもみなかった。その広い歩道に立ち止まっては私はしばしば嘆声を発し、時の経つのを忘れてあかず眺めた。
 パリでまず戸惑ったのは信号の少ないことである。コンコルド広場の前の大通りを渡ろうとしても信号がない。みんなは適当に車の合間を縫って渡っているので、まねて渡る。シャンゼリゼを歩いてその端にある凱旋門に至る。凱旋門はシャンゼリゼの建築の優美さを持たず、ただただどでかいにだけに過ぎなかった。しかし、かのナポレオンが築き、自らは凱旋できず、棺で帰って来たという名所、近くはヒットラーがこの門を通ってパリを占領し、連合軍とレジスタンスが凱旋したという世界の凱旋門だから、そこに行かずには帰れない気がする。観光の名所が観光客に仕掛ける罠である。しかしそこに渡ろうにも凱旋門を取り巻いているドゴール広場は全ての道が放射線状に集中しているところだのに、どこにも歩道も信号もないのには困った。凱旋門には人が溢れているではないか。どうして渡ったのか。実は地下道があったのだが、気がつかなかった。しばらく見ているとその幅三〇メートル以上もありそうな道を車の切れ目を見付けて勇敢にも走って渡っているやつがいるではないか。心臓病を盾に私はいかなる時も走らないという戒律を立てていたのだが、私は車の切れ目に向かって、迂闊にもつい走ってしまう。ところが、渡り切らない内に車は迫ってくるではないか。あわててラストスパートをかけた途端に帽子が飛んだ。取りに帰れるか、一瞬車の流れを伺うと、迫り来る車は何となく徐行する気配だ。欲に目がくらんでとっさに帽子に向かって逆走すると何台もの車が停止して待ってくれる。クラクッションを鳴らす車は一台もない。パリでは歩行者がいばっていて、平気で信号無視をして渡るが、車はいつも徐行して待つ。私はそこに車社会の成熟をみる思いがした。車が傍若無人にいばっている日本をいたく恥じた。日本の車は文明ではなく凶器である。パリの車は汚れて傷んでいたが、彼我の文明度の差は歴然としていた。そうして渡った凱旋門の下で記念写真を撮ったが、その出来栄えはシャンゼリゼを凌ぐ偉容であった。

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