寓話の復権 阿部公房『デンドロカカリヤ』
寓話の衰微がいわれてから久しい。今や寓話は子供のための読み物の中に封じ込められて辛うじて命脈を保っているかに見える。しかし寓話はイソップ以来、荘子以来の古い文学の原形であり、文学の中でのその位置が下降し続けているとはいえ、意外に根強く現代文学のあちこちに生き残っている。今なお寓話が顕著な形で生きているのに俳句の世界がある。例えば中村草田男の中にイソップを見たのは山本健吉であるが、彼の俳句
なめくじのふり向き行かむ意志久し
これはふり向きふり向き進まむと意志すること久しきも、遅々として進まざるなめくじの姿を描いたものであるが、同時にそれは草田男自身の逡巡忸怩たる生きる姿でもある。なめくじにそのような自嘲と自愛の入り混った自画像が重ねられているのである。動物たちが人間と対等な背丈を持つメルヘンの世界に託して、ぶざまではあるが懸命に生きるいちずな生の営みが肯定されるのである。
寓話は一つの物語とそれが放射する一つの寓喩の二重性において成立する。しかし、その寓喩となる観念の先行する形式であるがゆえに、それが固定化し、教訓化する傾向を持つ。そして固定化した教訓で表現するには現代はあまりに複雑すぎるのである。俳句もまた、その十七文字という制約ゆえに現代を表現できないのではないかと危惧されている文学形式である。いわば、そういうマイナスどうしが結合することで、俳句が現代詩として不思議な活力で蘇生するのが草田男の場合であり、草田男に限らず現代俳句の寓話への傾斜は、いたるところに見られる現象である。例えば草田男と対極にあり、即物的抒情に俳句の革新をかかげた山口誓子にさえ次の句がある。
海に出て木枯帰るところなし
この帰るところのない木枯の物語からは、行き暮れた現代人の孤独の歌がきこえてくる。
安部公房は小説の世界において複雑に錯綜する現代を捕捉するのに、単純明快を基調とする寓話を採用する。『終りし道の標べに』(昭23)の実存的リアリズムとでもいう方法で出発した安部は、『デンドロカカリヤ』(昭24)の変化譚でそれこそ唐突に自分の文学を変形させてみせるのである。その突然にみえる変形はアヴァンギャルド芸術家集団「夜の会」での花田清輝との出合いによって準備されていたのである。花田のアヴァンギャルド芸術の基本テーゼは<最もかけ離れた異質の諸要素を結びつけ、対立物を、対立物のまま統一する>(『ユーモレスク』・昭24)というものであり、安部はそれを寓話と小説という、前近代と近代の異質の方法を結びつける文学的実験をしてみせたのである。
『デンドロカカリヤ』は<コモン君がデンドロカカリヤになった話>という一行ではじまる。これは明らかに近代小説の冒頭ではない。このほとんど標題に近い、ずばり主題を明示した一行はメルヘンの文体である。寓語はイソップを見てもわかるように、メルヘンを通して現われるのが最も一般的な形であり、安部が現代の寓話を語るのにメルヘンの方法を採用したのは賢明な選択であったといわねばなるまい。コモン君の植物化の発作は唐突にはじまる。冒頭一行に続いて
ある日、コモン君は何気なく路端の石を蹴とばしてみた。春先、路は黒々と湿っていた。石は、石炭殻のようにひからびたこぶし大の目立たぬものだったが、何故蹴ってみようなどという気になったのだろう。ふと、その一見あたりまえなことが、如何にも奇妙に思われはじめた。
コモン君が何の変哲もない石につまずくこと、いや石を蹴るという行為そのものにつまずき、日常生活を支えている平衡をふみはずすのである。このようなささやかな心理異変はまことに日常茶飯事であり、<なに、誰だって知らず知らずのうちにしているのさ>とその心理の変調から立ち直ろうとふんばったとき、こんどは別の足がその石を蹴っていた。その瞬間、コモン君の心はもんどり打ってひっくり返る。
どこかへ引きさらわれてゆく感じ、おれの心はそんなに空っぽなんだろうか、そう思ったその時なんだ。コモン君はふと心の中で何か植物みたいなものが生えてくるのを感じた。
こんな誰にでもあり得る平凡な行為から起こる小さな心の波紋で、コモン君は日常世界からの失墜がはじまるのである。コモン君は地球の引力に引きつけられ、足が地面にのめり込んでしまう。こうしてコモン君は植物に変形する。すると、あたりが真暗になる。コモン君の顔が裏返しになっていたのだ。あわてて顔をはぎとり元にもどすと、すべて元どおりになる。以上が第一回目の変形と復元である。コモン君はあわててその場を取りつくろって立ち去るのだが、いちど日常世界にぽっかりあいた陥穽におちた者は、平穏な日常生活を持続することはできないのであろうか。偶然おちた陥穽をこんどは必然のコースとしてたどり直さねばならないのである。あの事件から一年たったある日、コモン君は一通の手紙を受け取った。
あなたが必要です。それがあなたの運命です。明日の三時に、カンランで……
Kより
一目で分かる、女文字である。考えているうちに暗示にかかり、Kという名の恋人がたしかに居たような気がしてくるのだ。こんどは女文字につまずくのである。翌日、コモン君は心をはずませて珈琲舗カンランヘ急ぐ。
カンランでK嬢を待つコモン君の前の彼女のための椅子に<黒い詰襟、厚ぼったい眼鏡をかけた、ずんぐり男>が腰を下ろす。そして<細い左眼で吸いよせ、右眼で飲みこんでしまう、そんな眼>でコモン君を見つめる。彼はコモン君の眼を、腹の中まで見すかすようにのぞきこんでいた。何から何まで知り抜いているといった顔つき、
いや、そんなはずはない、俺の顔だって知るはずがないじゃないかと、一応は何処かで打消しても、すぐ別なところで相手がすべてを知っているのだという自分にも分らぬ、そのくせ分ればもっともだと納得するにちがいないらしい、すくなくともそう思われる論理みたいなものが、にょきにょき生えてくる。
それが植物だ。何物かに自分の内部を知りつくされ、彼の思いのままに支配されている状態が植物化である。彼によって吸い取られ空洞化したコモン君の内部に天が流れこんでくる。
重い天が、やがて全身に充満して、いやでも内臓は体の外部に押出されていった。
こうして内部と外部が入れ換り、顔が裏返ってコモン君は再び植物となる。内部にぽっかりあいた空白、本来なら夢や希望や愛や怒りで充満しているはずの内部が天のように空白となる。そのような自己喪失の結果起こる内部と外部の逆転現象、それが植物化である。最後に顔が裏返って植物化は完了する。人間存在の象徴である顔が単なる転換装置のボタンと化す。従って、裏返った顔をつかみ出し、表を向けると人間に還るのである。必死のあがきで人間に戻ってみると、すでにK嬢との約束の時間は過ぎていた。三時とは変形の指定時間であったのか。すると変形とはあの黒服の男のしかけた罠であったのか。やつ自身がKであったのか。コモン君は自分に向けられたいばらのような店中の視線を逃れて外に出た。しかし、雑踏にもなじめなかった。ひとたび異物に変形した人間の異和感を抱き、この世の全体から拒まれている孤独感にさいなまれて、コモン君は逃亡し続ける。<顔が、ほとんどぐらぐらになっていて>、表を向いているほうが無理な状態である。今や植物化は避けられない必然のようだ。こうして安部公房は人間存在の不安定さを取り出してみせるのである。さらに人間と植物の往復運動を繰り返すことで、変形のメカニズムもしだいに解明してみせるのである。変形は外部と内部の気圧の落差、社会の荒廃による外圧の増進と生命の稀薄化による内圧の低下の結果、浸透圧の法則によって生ずる科学的現象である。変形という超科学的現象を科学的に解明してみせるのである。そこにはメルヘンと科学という異質の視点が奇妙に統一されていて、科学的メルヘンとでもいうべき、あるいはやがて現われるSF作品の前ぶれとでもいうべき新しい文学方法が出現していた。ともかくリアリズムから科学的メルヘンヘの移行の中で、人間を背景と奥行きを持つ典型として捉える人間観から、人間を異常物質として、特殊現象として捉える人間観への転換が行われたのである。そうして手に入れた方法によって、まるで手袋を裏返すように人間を裏返してみせるのである。つまりはどんな異常も許容するメルヘンを軸にした新しい視座によって、内部と外部の転換、人間と檀物の往復という変幻自在な転換の魔法、人間把握の新しい方法に到達したのである。『デンドロカカリヤ』はまことに安部文学のコペルニクス的転換を示す作品であり、アヴァンギャルド文学の未踏の領域に挑む新しい試みだったのである。
現代の新しい寓話を創造するには、この変形譚に新しい寓喩を盛らなくてはならない。作品の後半は寓喩の解明にあてられている。コモン君は自分の変形のなぞを解き明そうとしてまず訪れるのは図書館である。最初に、人間が植物になる地獄を描いたダンテの『神曲』を借りると、<八十二頁をお読みなさい>と指示する図書館員は例の黒服の男である。「神曲」第七獄の第二の円、それは自殺者が受ける罰だという、しかしコモン君はなぜ自分が自殺者の罪に問われなければならないのかさっぱり分らない。ここは罰だけであって罪のない世界である。かつての罪と罰とが均衡を保ち、その二元論を生きた人間の時代は去り、現代という地獄は罰だけあってそれに対応する罪のない時代である。罪を失った人間はもはや人間ではないのではあるまいか。人間が人間である原初のしるしを原罪というではないか。罪の喪失そのものが罰なのではあるまいか。するとコモン君は自ら知らずに自殺してしまっていたのかも知れない。この無意識の自殺者という位相が現代人の本性を無気味にさし示しているように思えてならない。漱石流に気どっていうと、アンコンシャス・ヒポクリット(無意識の偽善者)が近代人の病理であったとすれば、アンコンシャス・スイサイド(無意識の自殺者)が現代人の宿痾なのである。これが変形譚の寓喩であり、この作品の主題である。
たちまち地獄の様相を呈しはじめた図書館から逃れ出ようとして、入口で受付の男に捕えられる。またしても例の黒服の男、コモン君の行く先々に先回りして待伏せるこの男、それは先ほどの『神曲』の自殺者の樹々をさいなむ怪鳥アルピィエ。挿絵でみたあの顔だ。コモン君は男の正体が少し分かりかける。手を振りほどいて逃亡する。だが、地獄はコモン君を追いかけて街の中まで延びてくる。現代はあらゆる場所が地獄となる。
やっと家に帰りついてKの手紙を取り出して燃やす。その燃える炎に、人間の圧政者ゼウス一族を山上から追放するためのプロメテウスの火の幻影を見る。コモン君はさっそくギリシャ神話を調べはじめる。安部はギリシャ神話によってこの作品に社会的視点を導入する。つまりギリシャ神話をゼウス対プロメテウスの対立、人間の圧政者対守護者の対立として解読するとき、ゼウス一族によって植物化された人々の物語とともにコモン君の植物化は圧政の犠牲者の物語となるのである。かくてコモン君の変形は社会的に抑圧され疎外された人間の自己崩壊の寓喩といった意味を帯びてくるのである。
ある日、またコモン君に手紙が届く。
デンドロカカリヤ・クレピディフォリヤ殿―
貴方が、母島列島以北に存在するとは驚きましたよ。まったく珍奇なことですわ。是非お目にかかりたい。今夜の六時に参ります。
K植物園長より。
ギリシャ神話で調べてみると、黒服の男、アルピィエはネプチューンの女、水の女たち……さすればやはり火を消すゼウスの手下、そして今、K植物園長としてコモン君の前に現われる。このコモン君に変形を強いる者はあらゆる形で遍在してコモン君を囲繞(いにょう)しているのである。圧政者の組織は網の目のごとくコモン君を包囲しているのである。それではコモン君は何者なのか。私にはどうもコモンセンスに捉われた無力な民衆像のように思われる。例えば彼の思想はギリシャ神話を超えることができないので、園長に、
ギリシャ神話とは少し非科学的ですね。(中略)植物と動物は質的な相違ではない。量的に異なるだけである。つまり、科学的には、植物も動物も同じことだというわけですね。
と反駁されるともう返す言葉もないのである。ここには人間中心のヒューマニズムを否定し、動物と植物を同質とみなす新しい価値観、人間を物質として捉えるアンチ・ヒューマニズムの人間観が示されている、コモン君のヒューマニズム神話学では対応不能である。
もう一度整理しよう。コモン君対アルピィエの対立、究極までつきつめてみると、たぶん民衆対権力という政治的図式を潜めているこの対立を、変形を迫られる者と変形を迫る者、植物と植物園長というふうに描くとき、このドラマの結末はおのずから明らかであろう。二人の対面は園長のこんな言葉で打切られる。
きっと私のところに来る気になりますよ、すばらしい温室です。それに政府の保証です。じゃさようなら。期待して待っています。
ある朝早く、コモン君はアルピィエから奪った海軍ナイフをボケットに忍ばせて家を出る。寝込みを襲ってアルピィエを殺害するつもりなのだが、それは自らすすんで相手の手中におちていく自殺行為ではなかろうか。しかし、無意識の自殺者という宿命を背負っているコモン君にとって、自らを死地へ追い込む以外にどんな生き方ができようか。植物園では案に相違して人々は早朝からにぎやかに立ち働いていた。今日はちょうど緑化週間の花形、植樹デーなのだ。<多分、今日あたりいらっしゃるだろうと思っていました>と園長から歓迎される。コモン君はナイフを突出したままの恰好で大きな植木鉢に乗せられて、<菊のような葉をつけた、あまり見栄えのしない樹>デンドロカカリヤに変形してしまう。コモン君の変身に作者のコモンセンスへの訣別の決意が託せられていた。
コモン君、君は間違っていたんだよ。あの発作が君だけの病気でなかったばかりか、一つの世界と言ってもよいほど、すべての人の病気であることを君は知らなかったんだ! そんな方法で、アルピィエを亡ぼすことは出来ないんだよ。ぼくらみんなして手をつながなければ、火は守れないんだ。
イソップ以来の寓話作者の作法に則り、作者が舞台に現われて教訓を語って聞かせるのである。作者はコモン君の病気をすべての人の病であると診断して、連帯という極めて楽天的な処方箋を示してみせるのだが、コモン君のどこに連帯の可能性があったろう。圧倒的な現代の悪意の中で、自分が自分である根拠さえ見出せず、指示者の意のままに変形させられる現代人の悲劇を描いたとき、安部公房は現代民衆の病理にほとんど絶望していたのである。しかし彼はその悲劇を楽しげな文体で描き、最後に高らかに連帯! と楽天的に叫んでみせたのである。その意表をつく発想と文体の中に安部公房の新しさがあった。
『デンドロカカリヤ』ではじまる安部公房の寓話文学は、まことに多彩な作品群を生み出していくのである。次作『赤い繭』(昭25)では、家を求めて繭に変形する男の運命に、<家ができても、今度は帰ってゆくおれがいない>という現代の背理を見事に描いて、新しい寓話作家としての位置を確定した。続いて『S・カルマ氏の犯罪』(昭26)では名前の実在性を、『闖入者』(昭26)では民主主義の虚妄を、『棒』(昭30)では人間の裸形を、というように現代の課題をテーマとする寓話を次々と書きついでいくのである。そして、その夥(おびただ)しい寓話の集積のはてに、『砂の女』(昭37)という傑作が誕生するのである。それは現代の寓話が至りつく極点を示した作品である。しかし、寓話が完璧性へのぼりつめたとき、寓喩が図式として独り歩きすることで、寓話の二重構造の微妙な整合性が揺らぐという寓話の宿命に安部公房もまた遭遇していたのである。
安部公房(大13―平5)
満州奉天で生まれる。単身帰国し成城高校、東大医学部に入学。戦争期末、贋診断書を作り、大陸へ脱出、奉天で敗戦を迎え、故郷を失う。戦後、アヴァンギャルド文学者集団に参加し、新しい寓語的手法で現代の課題を表現する前衛的作品を書き続ける。
初出 | 『貫生』第6号 | 1982年6月 |
単行本 | 『作家 その原風景 短篇小説さすらい抄』 | 1985年3月 |
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