ミラノ観光はまずサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会から始まる。ここの教会の食堂にレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるのだ。それ一枚きりの絵の観賞が見落とせない観光ポイントという名画である。絵は修復中で、今日は監査の役人が来ているので、いつもは四十人入場させるところを、今日は規定どおり三十人に制限されているということだ。入場すると内部はガラガラでどうしてこんなに厳しい制限をするのか理解に苦しむ。薄暗い室内の壇上に絵があり、そこにスポットライトが当たっているが、絵のディテールが見える程の明るさではない。今日は役人のためにライトを当てているが、いつもは薄暗いままだという。その薄暗さの中で人々はいったい何を見ているのだろう。名画の幻影を見ているのだろうか。多分複製でディテールをしっかと頭に叩きこんでいて、薄暗い本物をなぞるのであろう。傑作とはげに恐ろしきものかなと感嘆する。
それから我々はいよいよミラノのドゥオモを見る。高々と林立するゴチックの塔、その絢爛豪華なファサードは鬼面人を驚かすというのか、ほとんど立ち眩みを催すほどの壮大さだ。一三三六年着工、一八八七年竣工、実に五〇〇年以上に渡って建設が続けられたというイタリア教会建築の超傑作なのである。内部はともかく外観の華麗さはヴァチカンのサン・ピエトロを超えている。屋上に登れるというが、とても階段で登る気がしない。やっと側面のエレベーターの乗り口を探し当てて屋上へ出る。屋上は無数の尖塔がそそり立ち、空に憧れるゴチック建築の美の典型をつぶさに味合うことができた。
イタリア最後の日、午後のフライトで午前の時間が空いたので、丘の上のベルガモ旧市街へ上ることにした。ケーブルカーで丘陵を上ると、これもまた中世城塞都市である。狭い曲りくねった道に沿って家の壁がいっぱいにはみだしている典型的な城郭都市である。両側の建物が余りに高く、道が余りに狭いので、トンネルの中の闇を歩いているような感じになるのだ。道の両側の家を繋いで電線が張られていて、裸電球の街灯がぶら下がっていたりする。そんな狭い道を歩いていてもほとんど人に出会うことはない。無人の街を歩いていると、中世のゴーストタウンを歩いているような気持ちがしてくる。何という不思議な街であることか。私たちは一時間もあれば町の隅々まで見て回れる小さな城郭都市を曲りくねった迷路を楽しみながら歩いた。旅の最後に予定外の観光で、こんな素敵な街に出会えたとはなんという僥倖であろうか。歩いても歩いても歩き足りない感じが募ってくるではないか。イタリアってすごいなあと改めて感動する。普通の観光コースに入っていないこのような田舎街が、実に見所いっぱい、至る所絵にならぬ風景はないと来ている。新しい家など一軒もない。みんな中世的にくすんだ色合いで立ち並び、ほんとうに人が住んでいるのかというたたずまいで静まりかえっているのである。でもでも住民はちゃんと住んでいるのだ。立派なドゥオモもあったが、朝のミサが行われていたので、入るのを遠慮した。城門の近くの広場ではテント張りの市場があり、日常品から土産物まで売っている。身振り手振りで幾つかの土産を買った。
私はイタリアの幾つかの古い都市を見て歩いた。どれも見事に古い都市のたたずまいが保存されていた。しかし、あれは保存ではないのではないかと帰路の飛行機の中で考えた。彼らは街を育てているのではないかと思えた。木を育てるように、森を育てるように街を育てているのではないか。古い街は放っておくとスラムと化し廃墟と化すことであろう。新しく造り直すと、古い街は消滅して、新しい街が誕生するであろう。イタリア人たちはそのどちらでもない道を選んだ。古い街を育てる決意をしたのである。彼らは古い城壁を壊して街を広げようなんてことは考えず、その中にある家を少しずつ空へーただ一つ空いている空間へ積み上げることで、祖先たちの築いた伝統の中で自分たちの生活を成熟させて行ったのである。そのためにこれほど多くの中世都市が残ったのである。中世を育てるという歴史の逆説を生きるイタリア人たちはひたすら新しさだけを追い求めてきた私たちのあずかり知らぬ人生の成熟の相を生きていたのである。これを観光都市というなら、観光とはなんとまた見事な存在様式であることか。