14、船上生活2
船上で聞いた講座で一番印象に残ったのは、水先案内人の伊藤千尋氏が紹介した「人間は一ヶ所にとどまると精神が腐る」というジプシーのことばである。若き日ジプシーを追って旅をして「どうして安住を捨てて、苦しい旅を選ぶのか」と執拗に問いかけて得た回答であるという。私の今回の旅の気分をぴったりいい当てた言葉である。
このクルーズの水先案内人で一番人気はこの人であった。実は三年前のクルーズでもこの人の同じ話を聞いたのだが、今回の話は話術と内容において進化していた。この人の講座はほとんど聞いた。
他の水先案内人の講座にもよく出席した。先住民連続講座は特に興味深かった。いろいろな講師が講義し、アメリカ先住民インディオ自身も自分の体験を語った。最後はアイヌ出身の計良光則氏が数回のアイヌの講座で締めくくった。
この船には体を動かすさまざまな企画があった。私もそのいくつかを覗いてみたが、どれも長続きせず、結局「健康体操 八段錦」が残った。スワイショーという準備運動に八つの基本体操を組み合わせたもので、簡単で覚えやすい。企画したMさんの人柄から発する落ちついた雰囲気が好きで、常連になった。
妻は毎朝五時過ぎに起き出して散歩、ラジオ体操、ヨガ、太極拳と体を動かし部屋に帰ってから八時起床の私と朝食に行く。私は朝食後しばらくして「八段錦」に出かける。体を動かすのは「八段錦」だけだった。「八段錦」は出航から帰国まで一日も休まず続いた。最後にMさんを囲んで送別会をした。
「デジカメ倶楽部」(企画ポルポ氏・マラカス氏)には早い段階で入った。パソコンを持参したので、グループリーダーになり、パソコンのない人の画像の取入れを手伝った。私のグループは三人で、M氏もS氏も写真の腕がよく、倶楽部主宰の「スライドショー」の採用率が高かった。S氏は活動家で水先案内パートナー(水パ)などやって忙しかった。水パというのは水先案内人の講演の準備、司会、後始末を担当する。この人は普通は若者が勤める裏方を若者に伍して担当していた。講義に使われたホールはいつも冷房が効きすぎて寒く、この人も重い風邪にかかり、厚着に大きなマスクをつけて奮闘していた。シニアで最も若者と交流した人ではなかったか。
一竿氏が企画し、Sさんが世話役をしていた「俳句を楽しむ会」にもしばらく顔を出した。私は俳句は大好きだが、実作はしない。この会に参加してから作ってはみたもののこじつけ気味の無理な句ばかりで、句を作る楽しみから程遠いものであった。ケニアを過ぎるころに落ちこぼれてしまった。句作はまたいつの日か再挑戦してみようと後に楽しみが残る会であった。
15、船で出会った人たち
今度の旅はあまり人との交流を求めず、静かにマイペースで過ごしたが、それでも九十日にあまる日々の中で、かなり多くの人にあった。
最年長は九十一歳のO氏で単独で参加していた。初めての船旅を心から楽しんでいる様子がありありとしていて、ついつい声をかけてしまうのであった。オプションにもしっかり参加していて、ケニアではロッジに泊まったという。この人には脱帽であった。
前回のクルーズで同船したY氏が私より年長であるのに、今回スタッフとして乗船していた。この人には時計の調整から体調まであらゆることの相談に乗ってもらった。奥さんも手術後の身で乗船していて、「船は病院みたいなものですよ。こんな安心なところはありませんよ」と励ましてらった。心強いカウンセラーであった。
車椅子で参加したI君は十八歳で乗船の決意するまでに長い時間がかかった。決意から実行までもまた時間がかかったという。彼は乗船してからその心の葛藤をしゃべり始めた。吃音で言葉が出にくく、一つの単語に時間がかかり、次の単語が出てこなかった。人々は言葉を待ち、彼も粘って話をつむいでいった。こうして表現を獲得していく過程は感動的だった。どうしても伝えたい執念が言葉を後押ししていたから、稚拙な言葉を超えて彼の思いは伝わった。その彼がニューヨークで船を下りた。彼は最後に別れの集会を開いて、下船の弁を述べた。初めての集団生活での極度の緊張、不眠による疲労困憊、そして撤退に至る。この別れの挨拶はりっぱであった。これは決して挫折ではなく、成長の物語の一節として私は聞いた。
手話教室の主催者T君二十一歳大学生は船上で自主企画「手話教室」を開く計画を持って乗船した。私が彼に初めて会ったのは「車椅子体験」の企画で、私は彼が乗った車椅子を押したのだった。
手話教室は大人気で、使用した部屋は狭くて一回では収まりきらず、毎日朝昼二回という激務を彼は一日も休まずやり通したのであった。彼はこの教室を運営しているのみならず、さまざまなイベントに顔を出していた。渡波亭発表会では手話落語を披露した。
私が船上で出会った青年たちはみな有能であった。乗船前から自分のやるべきことを決め、それを着実に果たしているように見えた。彼らは例外なく気品があった。彼らと同船したことが、この旅をどれほど爽やかなものにしたことか。
16、旅の終わりに
船は西へ向かっていくので時差が生じる。何日かに一度二十五時間の日が出てくる。何だか得をしたような気になる。それが積み重なって最後に日付変更線にやって来ると時差の集積を一日として返却する。この日付変更線に前回のクルーズでは地球が丸いと実感し、今回は時間という壮大なフィクションに感銘した。
地球を一周してみて、至るところ荒廃し、砂漠化する大地を見ると、地球の未来について悲観的になるが、洋々として果てしなく、深く無尽蔵な海を見ていると、地球には希望があり、未来があると思えるのであった。
二〇〇三年九月十八日、九六日かかって日本へ帰ってきて、私にはある達成感があった。人生の一つのステップを上ったような気がしたのであった。