故郷の心音――森井典男論

森井典男氏と筆者

1957年頃 神戸大学の教室にて
森井典男氏(左)と筆者


 序


  森井典男が一九六二年、二十六歳の若さで自死してからすでに二十余年の歳月が過ぎた。ぼくは今でも、この最良の友人についてしばしば思い出に耽る。彼は人なつっこい温顔で切れ味鋭い感性を包んでいた。ぼくは誰よりも彼に才能を感じた。それは宝玉の輝きを放つまぎれもない才能だった。ぼくはその輝きを確かめるのに二十年かかったわけだ。ぼくは彼と同年生まれで、大学では一年先輩だけれど、二十年遅れのライバルにすぎない。森井は日記に、

生きた人は年をとっても死者はいつまでも若い、忘れられまい、忘れられまいとして生きた者の足をひっぱる。

という謎のような言葉を残している。ぼくはその言葉どおり彼を忘れることができない。ぼくは彼の残した課題をぼくなりに引き受け、彼が急ぎ足で通り過ぎて行った彼の文学的生涯を、あの時代と共に再現してみたいとひそかに思い続けてきた。彼の死後、ぼくらはあわてて一冊の遺稿集を編んだが、今それを開いてみると、書くことのあまりに少なかった彼に改めて驚く。彼はあの頃、書く場所を持たなかったのだ。彼の才能は花開くことなく散った。ぼくは彼の残したわずかばかりの文字を手がかりに、ぼくの記憶で補いながら、一九五〇年代の一つの青年像を復元したいと願っている。


 T 故郷


  森井典男の故郷は兵庫県但馬の村岡の町から約一里彼方の山間にうずくまる萩山という数十戸の村である。森井の家は村では寺の総代を勤める格式のある家であり、村でいちばん本の多い家であり、マンドリンやヴァイオリンなどの楽器もあるもっとも文化水準の高い家であるという。それは元教員であった彼の父の教養を示しており、彼はその父の期待を一身に集めて育てられたらしい。彼は大学の教養課程時代に書いた小説の中で、彼自身を思わせる人物をいろいろ描いたが、ぼくは『奇禍』がもっとも事実に近いと思っている。その中から家に関する部分を引用すると、

終戦までは、かなりの小作料で何不自由なかった私の家も、わずかの山林と八段余の田畑を残して、みな解放されました。

  彼はこういう農家の長男として一九三五年一二月二九日に生まれた。彼は小、中学校を通して秀才の誉をになって一九五一年四月、兵庫県立八鹿高校に入学し、家を離れて寄宿舎に入った。この時を起点として故郷の意識が発生し、以後、姫路、神戸、大阪と故郷から遠ざかって行くのだが、遠ざかるにつれて故郷の意識はしだいに鮮烈の度を加えて行ったものと思われる。村の中枢の家の長男という古い共同体的世界の中心に生まれた人間が共同体の中枢の座に坐らなねばならない自分の運命に逆らって流浪するのである。しかし世界の中心もこの逸脱者を放っておくわけはない。故郷の牽引力の綱が流浪する彼をからめとる。こうして彼は故郷との牽引と反撥の中を生きていくことになるのである。この故郷とのドラマを誠実に生きたとき、彼はどんな結末へ行き着かねばならなかったかは、一九六〇年の、同郷の後輩、片村恒雄への手紙が示している。

ぼくらは、故郷の記憶を失ってはならぬ。美しい記憶ではなくて、つねに嫌悪と劣等感を喚起させながら、しかもなお、つねに愛によってつながっている記憶を。それを手がかりにしてぼくらは、この喧騒な社会に、ぼくらの故郷を発見せねばならぬ。そこへ向かって愛をそそぎこんでゆくために。

  ここからは太宰治が故郷に向かって「汝を愛し、汝を憎む」といったのと同じ歌が聞こえてくる。しかし、森井は太宰よりもはるかに倫理的であった。そこには<失ってはならぬ><発見せねばならぬ><そそぎこんでゆくために>と、当為の言葉があらわである。故郷から逃亡した罪は未来において償われねばならなかった。<この喧騒な社会に僕らの故郷を発見せねばならぬ>とは、故郷が贖罪のユートピアと化することの謂に他ならない。この後方にあるべき故郷を前方に逆転させたのは彼の深い故郷への負い目であるが、こういう転倒はいったいどうして起こったのであろうか。どういう経路をたどってこの倒錯に行きついたのか。その発端を暗示する文章を一つ引用しておく。

  もう十年近くも前のことだ。その頃、ぼくは計量された規格どおりに作用する真空管を熱愛した。真空管を中心に構成された回路は、抽象的な電波を捕らえることから始まって、それが音波となって具現されたとき完結する。そこには計量的に予知された結果に照らし合わせての正確と不正確だけがあって、生きた存在が宿命的に担わされている、予見できないどろどろした不透明はない。
  生きている限りは非完結な生の猥雑さにぼくが気づき始めたのは、その頃だったかも知れない。(『生彩のない風景』一九六一)

  ここに語られているのは自我の覚醒という事件である。<その頃>とは多分一九五二年七月、高校二年のときの病気のための休学期をさしている。翌年四月復学したとき、真空管を熱愛した理系の快活な少年は生の猥雑さに悩む文学青年と化していた。この病気の数カ月の中で、彼の人生を転倒させる何かが起きたのである。多分<非完結な生の猥雑さ>という現実と齟齬する自分の宿命を自覚したとき、彼の耳に故郷の心音が聞こえはじめたのである。遺稿集の山本宏美作製の年譜によると、復学後、森井は中村草田男に傾倒して俳句を作りはじめ、社会科学研究会に入り、毛沢東や魯迅を読み始めたという。復学後の高校生活の中で彼は社会認識と自己表現という両面から自己を掘り下げて行くのである。

  一九五五年三月の高校卒業後の進路選択時に故郷との困難な関係が表面化する。父は子の進路を大学の教育学部と指定していた。長男が家を継ぐ伝統の生きていた農村において長男を大学へやることはまだ異端に属していた。大学への進学は故郷との絶縁を意味したから。苦慮のすえ、父は大学に進んだ農村の子が故郷へ帰ってくるコースは教育学部を出て教師となるしかないと考えて支持したのだが、子は父の意志に逆らってひそかに文学部へ願書を提出していた。父が事実を知るのは合格発表後であったという。それにしても父の苦衷を知りつつどうして子は父を裏切ったのか。この温顔の孝子が人生の節目で見せた唐突な自己主張はひそかに堆積してきたものの爆発という形をとった。それは故郷からの自立宣言であり、故郷への別離の意思表示であった。そこには自己の宿命に突き当たった人間の、のっぴきならぬ自己主張があった。この事件は子の心に苦い痕跡を残した。彼は大学入学直後、「父と子」をテーマとして「自転車」「奇禍」という小説を書かねばならなかった。ともかくも彼が故郷を生涯のテーマとして背負い込まねばならなかった根はこの事件にあった。

  それでは彼はどうしてそれほど文学部にこだわったのか。時代とのかかわりで言えば、竹内好によって口火を切られた、新しい国民文学の創造という壮大なテーマを掲げた「国民文学論」の影響なしには考えられない。森井はすでに国民文学論の一端を担った永積安明の中世軍記物の研究を知っており、氏のもとで軍記物を学ぶべく文学部を選んだという。彼はすでに高校三年にして時代にとどいたのである。それは一方では一地方高校生の人生さえ巻き込んだ国民文学論の熱度の烈しさと、八鹿高校社研部のレベルの高さを示していた。以後の彼は、このとき決めた自分の人生コースを正確無比に駆け抜けるのである。年譜で示すと次のようになる。

一九五五年四月神戸大学文学部入学
一九五六年十月国文学専攻に進学
一九五九年三月卒業。卒業論文は「『保元物語』の形成過程」
一九五九年四月神戸大学文学部助手
一九六〇年五月「『保元物語』の形成と発展」を発表

  もう一度高校卒業時に返ろう。どうして文学部を選んだのか。一九五五年二月二五日、高校卒業直前の日記に、魯迅の「故郷」を読み返しての感想が記されている。作品の掉尾の有名な希望についての考察にふれながら、

彼は「もともと地上には道はない。私たちが開拓すべきなんだ」とはいっていない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ、といっている。自分はこの言葉の中に、魯迅の民衆に対する「諸君、共どもに歩こうではないか」というやさしい呼びかけと、民衆に対する強い信頼を発見できるように思う。そして、民衆への強い信頼こそ、明日の発展を彼に確信させ、倦まずペンをとらせた源泉のように思われる。

  こうして彼は魯迅の中から<民衆への信頼>というテーマを読み取る。「国民文学論」というのは竹内が魯迅の文学を念頭において提唱した文学運動だから、魯迅文学のテーマは国民文学のテーマに重なるわけだ。魯迅の中で自己形成してきた森井が国民文学論の中で進路を決定するのは必然の道行きをいうべきであった。それにしても高校卒業時に中世軍記物と指定する緻密さと、そのとおり卒論で実現させてしまう正確さは驚きだ。まるでかつて熱愛した真空管の回路ではないか。

  この魯迅の中から読み取った民衆への信頼は故郷への愛と読み替えてもいいように思う。どうして民衆が故郷に置き換えられるのか。民衆とは故郷の人々であり、未来の故郷を作る人々であるからである。彼は民衆をどのように描いたかを高校時代の俳句の中から探ってみると、

夏草や圧されて歩む農婦かな
夏痩や農夫小銭を使いはたす
働き疲れ貧しげなる子等に涙を禁じ得ず

これら貧と労働という視点から捉えられた民衆は農民=故郷の人々であった。

もう少し別の視角から検討してみよう。

ニコヨンのまなこをさけつ工事路すぐ
堤防の工夫に遠く雨あがる

  ニコヨン・工夫という民衆への賛美とうしろめたさがこれら無季語の句には表現されている。遠く離れては賛美し、近づけば負い目となる。この遠近法は故郷への愛と嫌悪の遠近法と同じであることはたやすく見てとれるであろう。故郷は近づけば近づくほど負い目は深く、今また父を裏切ることで新たな負い目を背負い込んだ。わが学業は家の犠牲の上に立っているのではないか。わが学業は家をますます貧に追い込むのではないか。農家の長男に生まれながら学問をして家を捨てる、そのうしろめたさから一日として自由な日はなかった。そこから民衆の犠牲によって自己形成する知識人という自我像が出てくるのである。民衆への信頼とはそのような知識人としての自己の使命の倫理的な表白に他ならなかった。故郷は遠ざかるにつれて民衆という未来の故郷の建設者に重なるのである。故郷の重い現実感が民衆というロマンシチズムに置き換えされることの中に森井典男の存在構造の鍵があった。彼は故郷と民衆の間に張り渡された一本の綱の上を危うい均衡を保ちながら渡って行った。そのような綱の張れる空間は文学の世界にしかないことを彼は知っていた。かくて故郷という世界の中心から民衆の世界に向かって旅立つ彼は、貧乏な田舎者という零落した姿でさすらう他ないことも知っていた。それ以後彼は、故郷の心音を己の心音のごとく聞きながら故郷から流離し続けるのである。


 U 俳句


  森井典男の郷里は江戸以来の但馬俳諧の伝統を持つ俳句の盛んな土地である。彼が最初の表現形式として俳句を選んだのは、幼時からなじんだ伝統の力があずかっていよう。彼は高校二年の復学後俳句を作りはじめたらしい。彼の俳句のもっとも古い日付を持った句、

昭和二十八年(一九五三年)四月作
濃き紅を一筋にかざして万珠沙華

  これは彼の自信作であり、ぼくらが大学で出会って後も何度かぼくにこの句を示した。事実彼の全俳句の中でこの句はひときわ異彩を放つ秀句である。彼の句史は最初の才能の一閃があたかも後の努力を徒労に化さしめるかのようだ。後の句作は俳句を棄て去るための長い労苦であるかのようだ。それにしてもこのはじめての自己表現には、濃き紅をかざしてしゃきりと立っている万珠沙華の華麗さに病癒えて再出発する青年のまことに颯爽たる生の息吹きが重ねられていて、十七歳の青年のある誇らかな自己顕示が託されていた。民衆への信頼という理念を掲げて人生を急ぎ足で横切っていった森井典男の人生さえも象徴しているかのようだ。しかし、この俳句はつなぎの言葉の「て」が少し曖昧で「がざして」が上下の関係を正確にぴしゃりと決めていないのが気がかりだ。万珠沙華に自己を託したとき、その象徴性が「て」の関係の曖昧さによって輪郭が少しぼやけてくるのである。つまりこの句は象徴性という俳句表現の本質の入り口まで到達しながら、ついに最後の一歩を踏み込めなかったのである。以後森井の俳句はその象徴性という俳句独自の表現に背を向けて歩み去って行くのである。

カラッポの秋誰か鉛で埋めてくれ
年寄りの世代が語る寒の暗さ

  これらは鋭く人生の一断面を切り取ってはいるが、観念性や説話性があらわすぎて俳句の表現機構を働かせるようには表現されていない。俳句という制約の中で素材はむしろ窮屈そうだ。しかし彼の手もとには俳句しかなかったので何でも彼でも俳句の中に押し込んでしまったのである。もっといい表現手段に行き合うまでの俳句は仮の表現形態にすぎなかった。

  それでは彼はどのように俳句を通り過ぎて行ったのか。彼は高校時代から中村草田男に傾倒していた。それは大学時代まで持続していて、ぼくにも草田男の愛誦句を語ってきかせた。山本健吉は『中村草田男句集』(角川文庫)の解説で、

草田男にはニーチェとチェホフとが共存しているといわれるが、その前により本源的にイソップが存在している。

と書いている。簡単な注釈を施すと、ニーチェとは観念的要素、チェホフとは生活的要素、イソップとは寓話的要素である。山本健吉は草田男の俳句の本質をその寓話性にあると見ているのである。森井がぼくに示した草田男の俳句は

はたはたや退路断たれて路はじまる
炎熱や勝利のごとき地の明るさ
ひきがえる長子家去る由もなし

といったニーチェ的傾向の句が多かったように思う。彼はそれをイソップを介在させずにひたすらニーチェ的に読んだのではないかと思う。例えばあるとき、

勇気こそ地の塩なれや梅真白

という句を示して、この<梅真白>は<霜真白>でなければならないと批評した。

勇気こそ地の塩なれや霜真白

となるわけだ。<勇気こそ地の塩なれや>という人間存在の根源的あり方へ向かっての問いかけを受け止めるのに<梅真白>ではいかにも軽すぎる、<霜真白>のきりりと引き締った厳しさによらなければ均衡を失すると主張した。それはより厳しく重厚な人生詩、思想詩を求める森井の生きる姿勢が投影されていたのだが、彼のように読んでしまうと、<地の塩>と<霜真白>があまりに同質のイメージとなって句全体が平板化しはしないか。<地の塩>と<梅真白>の取り合わせの方が水平な地面と梅があたり一帯に真白く咲いているふっくらとした空間が照応して句の世界が広がってくるのではなかろうか。人間の必須の条件である<勇気>が<地の塩>という生命の根源的物質の比喩によって提示され、さらに<梅>という寒中他花に先がけて咲く花の純白によって受け止められるとき、<勇気>という概念(テーマ)が<地の塩>と<梅真白>という二つの異質のものの衝突の中でアイロニーの火花を散らしてポエジーと化すのである。森井はそのような俳句の二元性の構造が醸しだすアイロニーを切りすて、一元的思想詩として読んでしまったのである。こうして彼は草田男のニーチェ的側面をさらにニーチェ的に読み、草田男の観念的傾向をさらに過激に観念化するとき、彼はもう俳句にとどまることはできないのである。こうして森井は俳句の二重性、寓意性には目もくれず、俳句の世界を横切って行くのである。

  森井が俳句を横切って行くもう一つの側面に触れておこう。彼にはひそかに愛着していたもう一人の俳人がいた。芭蕉門下の路通である。

鳥どもも寝入っているか余吾の湖(うみ)

という句のある路通は生涯気の向くままに放浪の旅を続けた乞食坊主であった。俳諧を嗜んで一時芭蕉庵の近くに草庵を結ぶほどにも師を敬慕していた。芭蕉の方も「奥の細道」の旅の同伴者に指定するほどにこの弟子に目をかけていたが、旅の出発が近づいたある日、突如いずこともなく姿をくらましてしまった。この「奥の細道」の同伴者に選ばれるという栄誉を束縛と感じ、そこから逃げ出さざるを得ない自由に呪われた男の運命に森井は深い関心を寄せていた。そのように倫理を易々と踏みはずして行く路通の自由は門弟たちにはふしだらとしか見えず、師に迫って破門させたという。森井が路通に惹かれたのは、なによりもその破門という事件に見舞われた生き方、自由に淫した放浪と逸脱であった。路通は過激な放浪者であった。それは森井にない資質であった。この己れの対極者への憧憬の裏には森井の苦い自意識が隠されていた。森井はいつも倫理に縛られ、故郷の引力圏内に生きていた。森井の中で破門は悲劇的に美化され、その処分を師に迫った門弟たちは彼から疎まれた。路通はもっぱら破門というロマンチックな枠の中で語られ、彼は路通を通点として芭蕉(俳句)を通り過ぎて行くのである。これは俳句という文学上の事件ではなく、人生論の領域内の出来事として語られた。こうして森井は草田男と路通を通って俳句を急ぎ足で横切って行くのである。思想的、人生論的足取りで、青春の足取りで。その出口には魯迅が待っていて、彼を評論と小説に導く。

  森井の俳句史を総括しておくと、まず劈頭の

濃き紅を一筋にかざして万珠沙華

と、出合がしらに俳句という形式を駆使してのあざやかな自己表現によって、彼の文学的才能の並々でないことを示してみせた。以後の彼の俳句をぼくは俳句を棄て去るための形式の虐待であるかのように言ったが、青春の自我の劇を捉えるべく奮闘した痕跡は次のような句に鮮明に読み取れよう。

貧と不和と生きねばならぬ日盛かな
虚偽虚偽となきてかしまし遠蛙
独白の言葉孤独に青嵐

  森井俳句の最良部に属する最も俳句的な作品においてさえ、青春の苦悩が前のめりにうたいあげられていて俳句の作法に忠実ではなかった。しかしそれゆえにこそ、微妙な味わいを醸し出す精巧な装置と言う俳句の陥穽に陥ることなく、大股に俳句の中を闊歩できたともいえるのだ。それは彼の自我が魯迅や社会科学の中で形成されたこととも関係があろう。高校時代の森井は社会科学と俳句という矛盾の中に身をおいて、近代的な論理と伝統的感性を両立させて、いやその矛盾の止揚をめざして生きた。そいう近代と伝統との葛藤を生きたからこそ、やがて俳句という伝統詩の向こうに中世軍記物に媒介されながら叙事詩の復活という文学的未来が構想できたのである。そのことについては後に詳述するが、さらにもう一つ付け加えておきたいのは、彼の対象の核心を射抜く明晰な表現力は俳句と言う焦点精度抜群の精巧なカメラから学んだということだ。彼の表現の輝きはこの短詩の中での鍛錬に負うところが大きい。森井は俳句を素通りしたわけではない。かくて彼の俳句の時代は高校時代と共に終わる。

蒼白き形骸残して卒業せり

という句を最後に彼は再び俳句を作ることはなかった。


 V 小説


  一九五五年四月、森井典男は大学に入学して姫路にやって来た。二十六歳で自死する森井の人生はあと数年しか残されていない。彼は生き急いでいるように、あわただしく高校時代の俳句を通過して、姫路で過ごした教養課程の一年半の間に四編の小説を書いた。文学的区分から言えば、この一年半は小説の時代ということになる。ぼくはこの時代の森井は分からないことだらけだ。ぼくの手にあるのはただ四編の小説だけで、一行の日記すら残っていない。山本宏美の年譜によると、入学後森井は「民主主義文化研究会」と「文学研究会」に籍を置いている。「民主主義文化研究会」は多分高校時代の「社会科学研究会」の延長線上にあり、その意味では彼の生きる姿勢は高校時代と変わっていない。ただ「文学研究会」に入り、小説を書き始めたという転換が起こる。どうして小説を書き始めたのかと問うてみても、今のところ、俳句を作りたくなったように、小説を書きたくなったとでも言っておくしかない。ただ俳句は彼にとって一つの通点でしかなかったが、小説ははるかに彼の本源に遭遇する場所であったとは言えるだろう。この時代彼が出会った友人に、後に次のように書く。

  今『原点が存在する』を読んでいる。大学に入った頃、ぼくの問題の出発点だった農民のエネルギーの発掘――それ忘れちゃ駄目じゃないかとこの本はよびかけてくる。

シャープなレトリックのなかから骨格をつかむのに苦労する。(藤井賢宛・1959・9・22)

  彼のテーマは一貫して変わらなかった。この<農民のエネルギー>は高校時代「民主主義文化研究会」で学んだ歴史意識の集約である<民衆への信頼>と別のことではない。高校時代の日記から再び引用すると、

最近になって国民文学の要求がとみに高まってくるにつけ、いままで重視されなかった中国文学がだんだん脚光を浴びるようになった。就中魯迅の作品、評論等は代表的なものであろう。

とかいている。自己形成史が同時代史に触れ得た事情についてはすでに書いたが、当時の彼が文学を国民文学論という一つの時代思潮のなかで考えていた点は確認しておきたいと思う。それも魯迅という提唱者竹内好の原点が踏まえられている点で、国民文学の核心を踏み外していなかったのである。遅れてきた者が正当な継承者となるのである。

  彼がこの一年半の間に書いた作品を列記しておくと、

『福さん』―或る卵買いの話―(1955・6・15)
『奇禍』(1955・8・26)
『寒い部屋』(1956・3・26)
『自転車』(1956・9・6)

いずれも文学研究会誌「白鷺」に発表されたものである

  森井の最初の作品『福さん』七〇枚を大学入学後二カ月で書き上げている。それは、次のような書き出しで始まる。

  卵買いの福さんといえば、このあたりでは誰一人知らぬものはなかった。山陰の山奥のこの地方では、余剰農産物と名のつくものは殆どなく、作ったものは自家消費してしまった。だから、どの農家でも現銀収入が少なくて困っていた。大ていの家に鶏を二・三羽飼っているが、生んだ卵は一つのこさずに売るのが普通である。このK村で、小学校に勤めている川村先生の家だけが例外であった。卵を喰えば滋養になるとわかっていても、彼らは一向に喰おうとしない。喰いたくても喰えない。たとえ五百円でも現金が入ることは、彼らにとって非常に嬉しいことだった。

  彼の最初の俳句が鮮やかに彼の文学的才能を啓示したように、この最初の小説も彼の作家的資質の豊かさを示してみせた。この冒頭部の農村の舞台設定のなかに、彼の現実認識の確かさが現われている。農村の貧困というのが彼のあらゆる現実認識の核である。主人公<福さん>は農民ではなく、農村を遊行する行商人として設定された。農村にあって土地を持たない福さんの位相が、農民の子でありながらを農村を見捨てようとする森井をひきつけるのである。<半径一里半位の円の中の谷々に散在する村々を回る><非常に面倒い割に儲けはいくらもなかった>しがない行商人である。福さんは子供好きである。子供たちと行き合うと<小孩(ショーガイ)>と呼びかけて交歓する。これは福さんが日清戦争従軍体験から学んだただ一つの中国語である。この作品はこのような福さんと子供たちとの牧歌的な交歓から始まる。やがて、その牧歌的交歓のなかに一つの異物が投げ込まれる。台湾引揚げ者、多田母子がK村に寄遇してきたのである。多田英一は華奢な体と才気を持ち合せた典型的な都会っ子であった。彼は汽車さへ見たことがない田舎者の無知に言い知れぬ優越感を抱いて傲慢に振る舞った。その才知で子供たちを圧倒したい英一は福さんと何かにつけて競合せざるをえなかった。彼は福さんと子供たちの親和が妬ましかったのだ。台湾育ちの彼は福さんの常用する<小孩>という言葉を知っていた。彼は福さんのような無知な田舎者の<知ったかぶりは唾棄すべきものだ>と思っていたので、ある日福さん向かって、

福さんは小孩、小孩って、よく支那語を知っているそうだから聞くけどなぁ、そしたらロートルって何のことだい?

と福さんの無知を暴露する。しどろもどろに言負かされて悄然と去っていく福さんの背中へ、

結局、田舎者なんて、なにか知っているようでも駄目だな。阿呆の一つ覚えなんだから。

と罵声を浴びせる。その言葉に、作者の分身である建三は不快に思う。

  それは、馬車馬のように働きつづけている百姓の素朴な体験から出た、殆ど階級的義憤といってよかった。

  この<階級的義憤>という言葉は、彼の愛用する<民衆への信頼>とか<農民のエネルギー>という言葉と同義でありながら、農村の貧困のなかでひそかに育てた情念に根ざしていた点で、むしろ深く彼を表現していた。建三は五反百姓の長男であり、町の中学の級長であった。中学の先生から高校への進学を進められているが、家の経済状態から昨年できた町の定時制高校へ行くことにしている。この健三という作者の分身を作品の片隅の、副次的人物のなかに押し込んだところに、作者の構成力の確かさがあった。健三は底辺で作品を支え、その<階級的義憤>という作品のモチーフを体現して作品の安定感を与える役割を果たしている。最初の作品で自分を作品の底部にはめ込むには、世界と自分の関係についての確かな認識に支えられなければならない。既に十九歳にして森井は、世界のなかにおける自分の位置について構造的に把握しえていたのである。そういう自分の根っこを掘り当てたところにこの作品の意義があり、それを小説的認識のなかで表出したところに森井の文学的展開があった。森井は自己の農民性についての認識を高校時代より一歩深化し得たのである。

  健三が作品を底部で支えているとすれば、上部で時代のテーマを語るのが福さんである。やがて冬が来ると、七十をいくつか越している福さんにはやはり辛い日々が来る。そんな日、福さんの健三の祖母に語る話は愚痴になるのだった。彼には二人の子供があった。娘の誠子は女子挺身隊として徴用されて赴任するバスが崖から川のなかへ転落して死亡したのである。町長は遺族をあつめて、彼女らは事故でなく、あくまでお国のために御奉公したのだと強調した。これほどの事件をどの新聞も一行も報道しないことに、福さんは何かだまされたような気持になるのだった。さらに二年後、息子の義男が戦死したという広報が入ったとき、彼は身を震わせて絶叫する。

一体戦争が何だちゅうだ! 人様の子供を二人とも殺してえて、戦争が何だちゅうだ! 天皇さんの命令だったら、人の子供を何人殺したってええっちゅうのか。わしゃ、そぎゃんな神さんなー信じん方がええ。人の子供を殺してえて、何だちゅうだ!

  自分の戦争体験を得々と語り、戦争の遂行に疑いの目をむける事など知らなかった無知な庶民が、自分の二人の子供の死に打ちのめされて、突如あげる悲鳴にも似た反戦の叫び、これがこの作品のテーマである。しかし、それが回想の形で語られて作品の現在の地平にしっかり根付かず、叫びは作品から浮き上がりうわずってしまう。森井は背伸びして時代のテーマを叫んでいたのである。森井はまだ時代の声に無器用にしか唱和できなかった。

  高校時代の社会科学研究会から大学の民主主義文化研究会にかけて学んだ時代思潮の集約である反戦の思想を森井はまだ文学的に造形するだけの力がなかった。そこには「政治と文学」という難問が横たわっていた。彼が学んだ国民文学論は、プロレタリア文学が階級という視点で解いた「政治と文学」の方程式を、民族という枠組のなかで解こうとしたのである。周知のように国民文学論は殆ど具体的な作品を生み出すことなく終った文学運動であったが、森井は果敢にその実践に挑んだのである。作品の主人公福さんは警察を恐れ、共産党を嫌う意識の遅れた庶民として、つまりは階級的視点を越えた、もっと広やかな視野で造形しようとする苦心をにじませて形象された。農村を舞台としたこの作品で、主人公を農民ではなく、卵買いと設定した。行商人という土地から疎外された、自由ではあるが弱者でもある人間を主人公として選んだところに、彼の作家的センスがあった。福さんはふたりの子供を失ったさびしさを紛らすため彼は卵買いを始めたのだという。福さんの行商人の根拠は、専らヒューマニズムの側面だけで説明され、経済的理由ははすこぶる稀薄なのだ。そのことが福さんの作品での輪郭を曖昧にしている。この主人公の農村の現実への根拠の稀薄さは森井の故郷への姿勢の曖昧さに起因していた。したがって福さんは卵を商うよりも、ヒューマニティを伝播するのだ。彼はひよこや子兎も持ち歩くので子供たちも自然に彼のまわりに集まってきた。彼は子供を愛していた。彼の子供好きは単なる子供好きではなく、

自分の子供を取られた福さんは、他人の子供の成長していくのを見るのがせめてもの楽しみだった。

という戦争の傷跡を隠しており、ただの庶民が反戦家に変貌する仕掛けが埋め込まれていた。だからそこから出てくるのは、こんな子供らをうちの義男や誠子のように死なせてはならぬという反戦の祈りであるのは当然である。庶民が反戦を語るのは何の不思議もない。反戦を説く庶民はいくらでもいる。だが作中人物が反戦を語るのはまた別のことである。作品のなかで一つの思想が語られるには、作者のなかで、その思想生成のサイクルが生きられねばならない。十九歳の森井は、二人の子供を失った福さんの悲しみをただ観念的にしか生きられなかった。それゆえに反戦の思想は観念的な叫びになるほかなかった。反戦を庶民の言葉で語るには彼は若すぎたようだ。彼はまだ民衆に届かない知識人の卵に過ぎなかった。しかし彼はその最初の作品で果敢に時代のテーマに挑戦して見せたのだった。時代を表現するのに<建三>という自己の分身を作品の底に沈め、<福さん>という民衆像を表面に拡大して見せたのである。時代の思想を語るについてのこの小説的迂回路は、彼の作家的資質を語っていた。作者は二人の間に巧妙に正体を隠していた。初めての小説で私小説的傾向の全くない、物語的結構を備えた本格的小説を書いたところに、その才能の並々ならぬことを伺わせた。この自己の収縮と民衆の膨張は、俳句で考察した遠近法と同質であり、その<民衆への負い目>と<民衆への信頼>の間で引き裂かれた彼の意識構造を反映していた。その裂け目から彼のロマンチシズムがにじみ出る。

  森井がこの作品で描いたもう一つのテーマである都会と田舎の問題、英一母子対K村の対立がある。そこには姫路という中都市での二カ月の生活が投影されている。英一について

彼くらいの年頃で、田舎人の底に潜んでいる素朴な真実を寛容な目で眺めるだけの余裕はなかった。

と、都会と田舎の対立を、才知と素朴のドラマとして捕らえている。彼はそのなかで、都会の傲慢、軽薄を裁いただけではない。

表面非常に篤実そうで、義理の深いところのある田舎の人達にひそんでいる、根強い排他性

をも暴いて見せるのである。しかしそれは都会と田舎の対立についての常識的見解に過ぎず、作品の展開から導かれたものではなかった。例えば英一が

一軒、一軒卵をもらい歩いてそれで生活しているんだから福さんは乞食みたいなものやな

といって福さんに殴り倒されるに至る二人の対立は、都会と田舎の本質的な対立に届いていない。つまりは多田親子が登場する場面は作品から浮き上がってしまうのだ。都会は多田親子のような紋切り型の姿でしか見えていなかった。森井はまだ都会を観念的にしか生きていなかった。

  この作品は十分に展開されなかった反戦と都会のテーマを取去ると、福さんと子供の世界であり、牧歌の世界を出ることがなかった。例えば、子供たちの雪の玉割りゲームに福さんが卵の景品を出す場面は、あたかも祝祭のごとく子供たちが生き生きと躍動する作品の真のクライマックスを形作っている。

  最後に、『福さん』はその盲目の妻の死後、横浜の養老院へ去っていく別れの場面を描いて終る。福さんの出発の朝、そのことを知った健三たちは朝まだ暗いなかを誘いあって見送りに行く。子供たちの思いがけない見送りに福さんは感涙にむせんで去っていく。こうして村を立ち去っていく福さんはやはり村を通り過ぎていく者の一人である。その点で英一と同じであり、村を出て大学へ入った森井自身も同じ運命を生きていた。この作品は村との別れというもう一つのテーマを隠している。中学を卒業する子供たちの殆どは村を出ていく。村はすでに内部から崩壊し始めていた。それゆえ村は懐古的まなざしで振り返らねばならなかった。そこから牧歌的懐かしさが立ち昇ってくる。

近頃は、農業組合が奨励してひよこを飼わせているが、大きくなって鶏が卵を生むようになっても卵の排け口にはそっぽを向いているので、村人たちは農業組合は責任がないと言っているということだ。

と一転して福さんの果たした役割を論理的に総括して作品は結ばれる。冒頭の現実認識と呼応して、いかにも社会理論派らしい結構である。

  それから二ヵ月後の一九五五年の夏休み、百枚に迫る彼の小説中最大の力作『奇禍』を書く。今度は自分自身を作品の中心に据えて、真正面から自分の核心に迫る迫力に満ちた力作である。それは自分の犯罪を自首して出た一青年の告白という形式で語られる物語である。

お願いです! 聞いてください! 私は罪悪を犯したのです。でも! それが私の罪だったでしょうか。聞いてください! 私は罪を犯したのです。

と切迫した語調で語り始められる兄殺しの物語である。ここでは『福さん』のあの一種のどかな説話風な口調が一変して、冒頭から荒々しい語りがいきなり読者をつかんで作品のなかへ引きずり込んでしまう。

  まず私の一家の構成は、家父長的権限を振るう祖父、兄を溺愛する父、祖父や父に反抗し始めた母、結婚して家を出た姉、ニヒルなエゴイストの兄、語り手である私、それに妹の七人家族である。作品の舞台は『福さん』のK村から私の家へ移り、「家」という自然主義文学以来の日本近代文学の、あの懐かしい主要舞台へ絞られてくる。すると不思議に私小説的雰囲気が漂ってくるのだが、作品の家族構成にしても森井自身の家とはかなり違っていた。例えば、森井は長男で、弟が三人いたというように。虚構という作品の基本は踏み外されていなかったのである。しかし故郷を裏切った人間が故郷に裁かれるという自分の精神の格闘のテーマをどうして自分の生育史と無縁な場所で描けようか。

  長男で皆から可愛がられて育った兄は野良仕事などしたことがないので、農家の子とも思われぬ貧弱な体の持ち主で、しかし勉強は中学で主席を争うくらいよくできた。父はそんな兄の教育に異常な情熱を示した。わたしの成績表なぞ一見すれば放ってしまうのに、兄の成績表となれば、ためつすがめつ眺めて一喜一憂する有様だった。父は兄を教育学部に進学させて教員にすることに決めていたのに、父に無断で文学部を受けてしまった。これはすでに書いたように事実にぴたりと符合する故郷への裏切りの始まりである。作品はそこから始まりその意味を追求する。出稼ぎから帰った父は激怒するが、文学部でも教職単位が取れることを知って進学を許すのである。しかし兄の進学を巡っては、祖父が農家の長男は家を継ぐべきだという理由から、母は家を出ていく次男(私)こそ全日制高校へ進学させて、まともな教育を受けさせなければならないという理由から、反対する。しかし結局兄は大学へ行き、私は定時制高校へ行くことになる。自然主義文学の「家」のテーマから言えば、この作品の家はすでに自我の抑圧機構ではなく、文学部進学という兄の自我の欲求が容易く受け入れられるものに変質している。この家族は祖父、父、母の順に近代化の波に洗われていた。祖父は農家の長男は家業を継ぐべし、という封建的伝統が揺らいでいなかった。母は兄弟は平等な教育を受けるべしと、いう近代的人間観に達していた。父は封建的人間観に安住できなかった。しかし家を否定するところまでは踏み切れなかった。それが農家の長男が教師として家を継ぐという折衷的な形となって現われる。そこに父の苦渋に満ちた選択があった。しかし一家の経済力から言えば、一人の自我実現は他の家族の犠牲を前提とせざるをえなかった。森井は自分の自我の実現が家にどんな犠牲を強いたかという自己の根拠へ踏み込んでいく。かくて、作品は兄の進学の犠牲になった弟の批判の視点から描かれることとなる。森井は自己批判をこのような結構を通して展開する。

  私は昼間農業をしながら定時制高校へ通学する。しかし定時制は授業も設備も幻滅以外の何ものでもなかった。姉は資産家の息子と本人の意志を無視して祖父や父の見栄で結婚させられる。この頃からひたすら忍従に生きた母の反抗が始まる。作品はこのように丹念に織折り上げられた人間模様のうえに展開されていく。私はこの家族のごたごたに苛立ちを募らせていく。大学最初の夏休みに帰省した兄は、私と共同使用している離れに閉じこもって、一向に農業を手伝おうとはしなかった。私が仕事に行く時間になってもぐっすり寝ている兄の枕を蹴とばしてやりたいと思うことさえあった。私は英語が苦手なので、兄に教えを乞うと、兄は私の余りの力のなさに苛立つばかりであった。私と兄の亀裂は日増しに大きくなる。

  兄は大学二年目から家に寄り付かなくなる。たまに金送れという手紙が舞い込むばかりだった。二年目の夏休み、盆に米を取りに帰った兄と父の会話を偶然立聞きする。父は兄が卒業後帰って家を継ぐよう説得している。父の<無理にでも連れ戻す>という声が聞こえてくる。それは私にとって<有無を言わさず追い出す>ということなのだ。家を追い出されても、私たち定時制高校生は殆どまともな就職の機会はなかった。私は暗澹たる孤独をかみしめるのであった。

 大学二年の冬休みも春休みも兄は帰って来なかった。祖父が働けなくなって私の労働は不可欠になっていた。私は牛を追い回しながら、自分が牛に思われて仕方がないのであった。

  大学三年の夏、兄は久しぶりに帰省する。あのエゴイストでシニックな兄は影を潜めて、明るく朗らかに振舞おうと努めていた。しかし私には醜い兄のイメージがこびりついて、兄の努力に好意を感じても、感情はそれを受け付けなかった。兄は三日も野良仕事に出ると、寝込んでしまってまた元のもくあみに帰った。そんな或る日、私が昼間の労働で疲れ切って寝込んでいる傍で父と兄は議論を始める。卒業後帰って家を継ぐように説得する父に対して、兄は弟が家を継ぐべきだ、自分が帰って弟を放り出すなんて無茶だと主張していた。

百姓家の次男坊はみんな同じこった、二郎は行くところがなかったら、自衛隊にでもやれァええ。
自衛隊だなんて――あれァ、アメリカの弾徐けだねァか。お父っあんは、二郎を犬死にさせったて、自分だけ楽をしてァだか!

それを聞きながら私は、

兄の話は条理が通っていました。しかし、私に条理の通った話が何であったでしょう。父の荒くれた語気にたいし、蚊の泣くような兄の声は、そして無気力そうな顔は、私をして嘲笑せしめるだけでした。

と、兄への反感を募らせるばかりだった。家の犠牲になる弟への思いやり、あるいは自衛隊の否定、そういう民衆への愛とか反戦とか言う森井の学び信じてきた思想、『福さん』という作品を支えていた思想の成立する根拠を問うているのである。『福さん』に現われた、あのおおらかで明るい社会正義は、農民の犠牲の上にあぐらをかいた偽善の思想に過ぎなかった。社会の解放者たらんとする自分が家の犠牲のうえに生き、弟の抑圧者と化しているではないか。こうして森井は<民衆への信頼>という自分の根本思想の根拠を洗い出し、根源的な自己検証の作業を進めていくのである。かくて兄の<条理の声>は<蚊の泣くような><無気力>なものに相対化されていく。自分の拠って立つ思想の基盤への、このような検討へ進み出ていく背後には、森井の大学四ヵ月の深い自己省察があったに違いない。作品は一気に、殆ど直線的に自己を追いつめていく。ここには『福さん』の持っていた、紆余曲折する物語的凹凸はない。作品はテーマが先鋭になることで、小説の多様性が失われるというジレンマにも突き当たっていた。『福さん』の<反戦>も<都会>もない。『福さん』で分裂していた<民衆への負い目>と<民衆への信頼>は<の民衆への負い目>を軸に統一されるのである。ここでは、ただただ<民衆への負い目>という贖罪の歌だけが鳴り響いている。かくて『福さん』のテーマの分裂は克服され、彼の依拠した<民衆への信頼>が解体し、<民衆への負い目>という負債を自己の根拠として確認するのである。この作品はそのような自己の根拠の確認の書である。

翌朝の夢に父と兄が現われて、私に自衛隊行きを勧める。弟の意識のなかで兄は許されることはない。

  次の夜、私が盆踊の稽古から帰ってみると、姉を囲んで祖父と父と母が何やら話こんいた。姉は婚家にいたたまれず帰ってきたのだった。しかし祖父や父は姉の離婚を認めない。私は<トゲだらけ>で混乱した頭を抱え、爆発寸前の状態で兄のいる離れへ入っていく。姉のことを話そうとすると、兄は踊りで真っ白になった私の足を指し、<何だ! お前の足ァ>と罵倒し、苛ちと怒りで棒立ちになった私を、<畜生! 人をなめる気か、足を洗ってこい!>と部屋から押し出そうとする。<今まで抑えていた、長い間の反感が憎悪となって>爆発する。私は力いっぱい兄を押し倒す。兄は激昂して、腕では及ばないので、側にあった箒をつかんで突き掛ってくる。それが私の頬を突き、口のなかが血でぬるりとする。私は部屋の隅にあった棒切れをつかむと兄の胸ぐらをつかんで力一杯殴り付ける。私は逆上してもう何が何だか分からずに兄を殴る。スタンドがひっくり返って、闇のなかから兄のうめきごえが聞こえてくる。私の握っていたのは鎌だったのだ。<兄の頚動脈から・・・血が! 血が! ――>こうして兄を殺した弟の自白が終る。

  森井は自己の分身を追い詰めて抹殺する。森井の自己批判は全面的自己否定に行き着くのである。この弟に裁かれる兄の話は、自分の進学が家にどれほどの犠牲を強いたか、そこから発する負い目がどれほど強いものであったかを示している。この故郷への贖罪は、この作品のテーマであっただけではなく、彼の生涯のテーマであった。この作品における兄の死は、七年を隔てて彼自身の死と照応している。森井の中には過激なものが潜んでいて、この作品でも兄への批判がしだいに堆積していき、ふとしたきっかけで一直線に血まみれな惨劇へ疾走し、一種異様な熱気をはらんで破局へ激突する。その過激さが七年後の自死の場所として通過する急行電車への飛び込みという形を選ばす。森井はいつも穏やかな表情の後ろに過激へ向かって決壊する危険を抱えていた。その過激さは目的にむかって正確無比、脇目もふらずに集中していく、過激な集中力であった。自己批判が過度の自己否定へ雪崩る歯止めを欠いていた。それが森井の生の様式であった。この作品には最後に次のような付記がついている。

都会の青年たちがマンボに明け暮れている今日、のんびりしたかに見える田舎には、かかる暗黒のあることを知って、進まぬ筆を執って拙文をものした次第である。諸兄姉の中には、或は、昨年の八月一四日付けの新聞で、名前を変えればこの話と一致する事件が、三面記事に載ったのを憶えておられる方があるかもしれない。

  これは作品が自分とは無関係なフィクションであるという弁明なのだが、そう弁明せざるをえないほどに深刻に、作品は彼と故郷との関係を指し示していた。言うまでもなく、私はこの作品が彼の事実に即しているなんてことを言いたいわけではない。どんなに深く彼の真実を暴いてしまったかを言いたいだけだ。それは七年後の自裁さえ暴いているように見える。この作品は一気呵成に書き上げられたように思われる。そういう力感に満ち満ちた作品である。作品の勢いが作者の宿命を暴いてしまう底(てい)の力作であった。

  それにしても、自己の根拠に垂鉛を下ろして、自分の思想に鋭いメスを入れて自分を解体さすような作品を書いた後で、どのような作品が可能であろうか。そこには自己の根底からの再建という困難が待ち構えていたに違いない。それにはまず「民衆への信頼」という彼の基本テーマが再構築されねばならない。森井は以後二つの作品を書いたが、小説のなかでの自己再建はできなかった。第三作『寒い部屋』も第四作『自転車』もともに小品である。『寒い部屋』は一応<民衆への信頼>の再建のテーマを掲げたが、肝心の民衆はどこにも見当らなかった。そういう空虚と苛立ちの学生生活を青春小説風なタッチで描いたものであった。『自転車』は彼の最後の小説になったが、父と子の深い亀裂を描いた『奇禍』のあとに、ほのぼのとした父と子の和解を描いて見せた。このような父へのこだわりは、彼の人間関係の基盤は父と子であることを示している。父は彼の大学進学のいわば共犯者であった。農家の長男は学問などせずに、家業を継がねばならぬという古い農村の伝統に対して、彼を大学に入れてくれたではないか。父はもしかすると自分の見果てぬ夢を子に託しているのではないか。だのに、子は父の期待に応えられそうにない。父は子が家に帰ることを期待したが、子は民衆という歴史への帰属を望んでいたのだ。彼のなかで父に対する牽引と反発の葛藤が渦巻く。故郷はその底には父の姿を隠していた。故郷は彼のまえに重い課題として残り続けるのである。


 W  詩


  ぼくは森井典男論を書き始めたとき、その構想の中に詩はなかった。ぼくの構想では彼は俳句から出発して、小説を通って、評論、研究へ行き着くのだ。彼は決して詩人ではなかった。彼は詩の中で自己表現したこともなければ、詩の中で自己形成したこともない。森井にとって詩は戯れでしかなかった。しかし、そもそも文学は戯れのごときものではないか。戯れの中に現れてくるものをどうして軽視できよう。ぼくは改めて彼の詩を読み返してみた。そこには紛れもなく森井の青春が息づいていた。ぼくは彼の詩に不当に低い評価を与えていたことに思い当った。彼が最初の詩を書いたのは、一九五七年で、大学三年の夏であり、小説を書き終ってからもう一年も経っていた。それからの二年間に四編の詩を書き、最期に遺書のように一編の詩を書き残して死んだ。森井典男のできるかぎり正確な文学的肖像を書きたいと念じている者にとってやはり詩は避けて通れないのではないかと思い返して詩の項を起こす。今入手できるかぎりの彼の詩を列挙すると、

「山の歌」(一九五七・八・一八)≪日記≫
「月の変貌」(一九五八・五)『神大文芸』
「病んだ部分」(一九五八・五)『神大文芸』
「鞭と燐」(一九五九・五・二〇)≪藤井賢への手紙≫
「波止場」(一九六〇・七)『抵抗』
「ゼロの日」(一九六二・六) ≪手帳≫

の六編である。最初の作品は「山の歌―伯耆大山へ登山して―」と題して、『日記』に書きつけられたものである。発表の意図はなく推敲のあともない。まことに稚拙な作品ではあるが、昔から処女作には作者のすべてがあるといわれるように、最初の作品は作者の原質をあざやかに示す。森井典男は何者なのか、彼はどこから出発したのかを確認すためにも全詩を引用したい。

山は屹立してそびえ
競って他から自己を峻別する
ビュンビュン吹きあげる風は雲を呼び
雲は雲海となって湧きかえる
山は岸壁と岩屑で身を固め
登頂しようとするすべてを拒否する
麓からみた緑の幻想をかなぐり捨て
拒否に満身をこめて屹立している山肌を
さらに拒否しえたもののみが登頂するのだ
二つの拒絶を乗りこえて登頂したとき
ぼくらは山と自己との触れ合うきずなを感じる
そのとき、はじめて、ぼくらは
屹立と峻別の厳しさを理解する
ぼくらはフト山の愛を感じる
再び麓に降り立ったとき
ぼくらは懐かしさと親しみをこめて
屹立する山なみをふり仰ぐ
麓からみえる緑はもはや幻想ではない
ああ、そのとき、ぼくらの心に
山への愛が誕生するのだ
山の歌が唇をついて出るのだ

  ここには最初の詩を書く人間の構えというかと肩肘張った力みの姿勢がある。この詩は<屹立><峻別>が合せて六回、<拒否><拒絶>が合せて四回とほとんど同義語の羅列、反復の観がある。これに対応する語も<きずな><理解><愛><懐かしさ><親しみ><歌>と類語の反復である。詩とは「近いものの切断、遠いものの連結である」という西脇順三郎の定義を待つまでもなく、このような近い言葉の反復は詩を著しく平板にする。しかしこのような措辞の偏向はどうしておこったのだろう。その措辞のなかに森井の魯迅への偏愛がある。この詩のキーワード<拒否>は彼が魯迅から取り入れたものである。同じ時期に書いたと思われる『魯迅の文学について―「野草」へのアプローチへの貧しい試み』の中で、『野草』のカオス的性格は<小説と雑文との空隙に位置する>ところからきており、<人の心にしのびこんでやっつける小説>と<徹頭徹尾拒否することによって内外の敵をやっつける雑文>の両面を具備しており、その<心のなかにしのびこみ、拒否し、かつやっつける>ところからその分かりにくさが発するとする。小説を書き終えて雑文(彼の場合は評論)へ移行する過程で詩を書き始めたとき、魯迅のなかで文学的自己形成をしてきた彼は、当然のごとく魯迅の唯一の詩集『野草』に蓬着する。彼の詩の生涯はほとんど『野草』から出ることはなかった。彼は『野草』を孤独者の絶望=拒否という軸でとらえた時、自分の最初の詩に「拒否」という魯迅の言葉があふれるのをとどめることができなかった。しかし森井は『野草』にあれほど色濃くたちこめている死の影を一顧だにしなかった。彼の意識のなかから死はぽっかりとと抜け落ちていた。そこに後日の自死に至る陥穽が潜んでいたのではないか。ともかく『野草』は「死」をキーにしなければ解けない作品である。魯迅はおびただしい死に囲繞されて『野草』を書いた。魯迅はあそこで自己の生存の基盤を生から死へと据え直したのである。あの作品の難解さは死後の世界(そのメタファーとしての夢)から現実を振り返った死者の視力の異常さ由来するのである。何度も触れたように森井はひたすら竹内好を通して魯迅を読んでいた。生き急いでいた森井には『野草』の死の影は<拒否>という生きる姿勢に見えた。この最初の詩は<屹立>する山の<拒否>を乗り越えて山の<愛>に到達するという向日的なテーマを魯迅的な語彙で表現してみせたものである。森井は二度とこのような向日的な作品を書くことがなかったが、『奇禍』のような暗く屈折した小説を書いた後で、どうしてこのような素朴な作品が現れたのか、処女作というものの不思議を思わずにはいられない。ここには森井の原質にある生真面目なストイシズム、その核心にある健全な向日性が露出している。

  魯迅の『野草』から学んだ詩の措辞に言葉の羅列がある。「山の歌」から一年後、一九五八年五月『神大文芸』に発表した二編の詩(森作太郎というペンネームで発表)のうち「月の変貌」のなかの<炎・血・煙・叫喚・号泣・肉塊・・・>は明かに魯迅の措辞から来ている。この一年の間に詩は形姿を整え、急速な進歩を見せている。「月の変貌」は原爆をテーマにした反戦詩で、森井が高校時代の「社会科学研究会」以来一貫して追及してきた時代のテーマに取りくんだ作品だが、しかし時代の一般的テーマを個性的に表現することはなかなかの難事で、森井のこの詩も表現の常套性、内容の概念性から免れていない。しかしもう一編の「病める部分」は構成、表現の多少の混乱はあるものの現代の病根をあざやかに掬い上げている。

  <――夜がやって来るよ/――夜がやって来るよ>というリフレインをもつこの七五行詩は<むくんだ顔の職工><ルージュのはげた淫売娘><目ばかりギロギロしたおばはん>が<うすぐらあい/路地裏に/はきだめられた/病んだ部分>として現れるが、そのなかでも<醜くふくれた病んだ下腹を/まっ赤なタイトスカートでおしかくしている>淫売娘が日本の病んだ部分を象徴する。<埋めつくせぬ間隙/疎外された空間/自分の体であるが故に/いとほしい/この病んだ部分/自分をむしばんでゆくが故に/むしりとらねばならぬ/この腐りかけた部分>と、もどかしげに病巣を解析する。やや錯綜してはいるが、森井の詩的表現は現代詩のレベルに届こうとしている。さらに<火の破片/汚れた血痕/それらの集まる病巣が/又も痛み出す>と魯迅的語彙が自分の詩語として駆使されている。そこに<年から年中/一枚きりのジャンパーを着た奴>が現れて<病巣をひきむしりながら/囁きかける>その囁きが

風が熊笹のさやぎを呼ぶように
しばらくの間
病んだ部分がさやぎだす

と展開するのだが、<風が熊笹のさやぎを呼ぶように>というすばらしい比喩が現れて詩は一気にはなやぐ。

ジャンパーが又も囁きかける
執念深く囁きつづける
病んだ部分に密生した
小さな熊笹が
風をうけていっせいにさやぎだす
羞恥と
屈辱と
憤怒とが
せい一ぱいにこめられた恥毛が
いっせいにさやぎだす

  ここでもやはり<熊笹>の<さやぎ>という比喩が非常によくきいていて、病巣の<さやぎ>がまるで祝祭のごとき爽やかさを生み出す。「詩は喩である」というぼくのまことに原始的な詩論からすると、現代の病巣を「淫売婦の恥毛」という喩で捉え、さらにそれを「風のたてる熊笹のさやぎ」という喩へ飛ばす飛翔距離は、あの「遠いものの結合」という西脇順三郎的原則に照らせばそんなに意表を衝く遠さではないが、それでもその喩の重層性にぼくは森井の詩の才能を感じるのだ。この作品には森井の他の作品にないある爽やかな軽みを漂わせている。それは彼が戯れにかぶった「森作太郎」という仮面の裏の、萩原朔太郎的歪曲のしかけから発したものである。ともかく森井は魯迅の「拒絶」に朔太郎の「病い」を加えたのである。

  この時期森井はもう一編私信のなかで詩を書いている。「鞭と燐」と題するその詩は

真暗闇の宙空で
おごれる亡者のムチが鳴る
ひゅるうん ひゅるうん ひゅるうん
「あのチロチロする鬼火は?」
「亡者の舌なめづり」

で始まり、

真暗闇の宙空で
ひゅるうん ひゅるうん ひゅるうん
鬼火――鬼火――鬼火
「復讐だ」
「復讐だ」

で終る二三行詩である。<ひゅるうん  ひゅるうん  ひゅるうん>という中原中也調のもの哀しい擬音とメルヘン調の会話と<亡者><鬼火><復讐>という魯迅的語彙が織りなすこの地獄の物語は、それぞれの要素があまりに安易に折りあいすぎて、新しい地獄の戦慄には届かない平凡な物語に終ってしまった。しかしこの時期の森井の詩は多様性の萌芽を抱えていて、この詩では中原中也の「自虐」を加えている。

  一九六〇年七月創刊の同人誌『抵抗』に森井は七八行の「波止場」を書く。これは彼が実名で発表した唯一の詩で、渾身の力をこめたとも思われる力作である。<油と糞便と腐肉と木片と/ごったくたに入りまじり/ありかを定めず浮遊し/防波堤に羽交締めされた港は/汚臭をはなつコンクリートの容器だ>という波止場で、<鈍重な鋼の船体>を持つ貨物船と、海に落ちて<飢えを消さずして屍猫>となった猫が波止場で、一方は積み荷を降ろして出航せんとし、一方はあちこち浮遊しつつ次第に腐乱していく様を執拗に追跡する。<汚水に腹をふくらませて/屍猫は/故なくして眼をとじず/無用の四肢を投げ出して硬直する/無用の黒白の衣装をそのままに硬直する>。出航する貨物船と取り残される屍猫を重厚な叙事詩的描写で息もつかせず追跡する。森井は叙事詩に文学の未来を見ていた。彼がショーロホフの『静かなドン』を現代小説の最高傑作としたのもそれが叙事詩であったからだし、卒論に『保元物語』を選らんだのもそれが日本の叙事詩の原形であると考えたからにほかならない。彼が現代を叙事詩で捉えてみようとしたこの詩は野心的意図を秘めていた。しかし詩は最後の二連で、

ギリン・ギリン・ギリン・ギリン・・・
これはお前の歯ぎしりなのか?
それとも―――
ぼくらのうめきなのか?
屍猫は腐るにまかせ
聞くわけにはいかぬ
故なくして屍猫は眼をとじず
皮をはがれても屍肉は沈もうとせぬ
ぼくらは見ぬわけにはいかぬ
ほかならぬ
お前を

  <ぼくら>という一人称と<お前>とという二人称が現れ、叙事体が突如会話体に変調する。この詩の<波止場>は現代の状況であり、そこに浮かんでいる<貨物船>と<屍猫>は、とりわけ<屍猫>は<ぼくら>の世界の腐乱にほかならぬことが自明の前提として成り立つ詩的世界であった。詩は屍猫の意味を解明しなくてはならないのに、自明の前提の解明へ帰ってしまうのである。自己を解読するために屍猫という記号を提示したのに、屍猫が自己であることを証明するという不毛の循環に陥ってしまうのだ。叙事詩の論理が<ぼくら>という不用意な夾雑物につまずいて挫折したのである。この作品のあまりに力んだ単調さが自己という物語に救いを求めたのである。一年前の詩の多様さの萌芽がついに開花すことなくしぼんでしまった。森井の詩は暗い。最初の「山の歌」は別にして、「月の変貌」「病んだ部分」「鞭と燐」「波止場」は腐乱していくもの、形の崩れていく世界を描いた。そこには自己崩壊への嗜虐といったものさえ秘めていた。それは魯迅の暗さとは異質であった。魯迅の暗さはどこにも曖昧なところはない。いわば明晰な暗さである。どこで切ってもそれは硬質な絶望に輝いていた。その暗さはたぶん竹内好がいうように自己否定の通路を通って民族へ通じていた。森井の暗さは自己という袋小路での行き止まりの暗さであった。「原爆」や「淫売婦」や「鬼火」や「屍猫」を置いて自己という迷路からの出口を模索したが、最後に<ぼくら>に舞い戻ってしまった。森井の暗さは魯迅の<暗夜>に届かなかった。森井の詩はここで終る。

  ところがもう一つ詩が出てくる。一九六二年六月一五日、阪神電車野田駅を通過する特急電車に飛び込んで自死した彼のポッケトの手帳に書き留められていた詩で、執筆時期不明である。「ゼロの日」と題されている。

伝票をめくりながら走っている
運転手がいる 
鉄骨を山積みしたトラックが走る
若者を力づけることができただろう
少女が死んだ。
働きざかりの親父がひかれた
落日に射すくめられて
眼を失った運転手
「あなたを事故が待っている」広告
事故を起すな!
起こした者が罰せられる
少女の母親は運転手をのろい
生活を失った運転手は緋色のセータをのろっている

  この詩はなんということもない詩である。手帳に書き留められたメモに過ぎない。ただこれが彼の自死と結び付いて、死の予告あるいは遺書ではないかと読んでみると俄然謎めいてくる。その表題「ゼロの日」は当時の交通安全運動のなかで毎月一五日が交通事故ゼロの日として指定されており、まさにその一五日が自己の死の日として選ばれたのである。死亡「ゼロの日」に事故死する少女を通して彼は自分の死を予告したのか。それにしてはこの詩はむしろ加害者である運転手の方に身を寄せている。自分の死への怯えのごときものをモチーフとしながらも、この詩は加害と被害が分かち難く錯綜し、死の偶然性、死が路上にあふれている現代の不条理が取り出されている。そして<「あなたを事故が待っている」広告>という衝撃的な一行が現われる。ここには<あなたを事故が待っている>という暗く秘かな破局の予感が<広告>というあらわな顕示と結びついて、偏在する現代の惨劇に気づいてしまった者の怯えが露呈している。ぼくはある戦慄なしにここを読みすごすことはできない。しかしそこから森井は自分の死の固有性へともう一歩切り込めず、死への怯えを人間の一般的条件へと解消してしまうのである。<事故を起すな! 起した者が罰せられる>というようなあまりに取り澄ました古典的教訓にとどまって、自分に襲いかかる現代の危機の不気味さへ踏み込もうとはしなかった。彼は自分を囲繞する死に対して詩の論理で対峙しなかった。彼は立ちすくんだのであろうか。このときなぜか彼から魯迅の影が消え失せていた。<「あなたを事故が待っている」広告>――森井典男の二六歳の自死は事故死であったのか。


 X 評論


森井典男氏

筆者が1961年の大晦日に撮影した森井典男氏
この写真の裏に彼は
「1961年の暮、来年はどこへ行くのであろうか」
と書き付けていた。

  森井典男がいなくなってからすでに三十年近くの年月が流れ去った。森井典男とはいったいいかなる事件、いかなる青春であったのか。追憶に耽っていると、芒々と霞んだ彼方から一枚の絵が浮かび上がってくる。大学生活の終わり近く、学生文学ゼミとかいうもので京都へ行き、帰りに二人で岡崎美術館へゴッホ展を見に行った。ゴッホの絵を順々に見ていたぼくらの足がほとんど同時に一枚の絵の前で釘づけになる。ぼくらはその「糸杉」と名づけられた作品の前でまるで金縛りにでもあったように立ち尽くし、本物の絵が突きつける圧倒的な量感の前にぼくらはたじろいだのだった。一枚の絵がこのようにも生々しく存在の総量を一挙につかみ取る、その迫力に圧倒され、ぼくらはそれを辛うじてゴッホの狂気を手掛かりに説き明かそうとあがいていたのだった。思えばぼくは絵画にあのような衝撃を受けたことはない。その後ぼくの絵画鑑賞眼が深化した形跡もまったくない。ぼくの絵画史はあのとき終わったのである。とすれば、あの一瞬の絵画発見のドラマも森井典男を抜きにしては成り立たなかったのではなかったろうか。ぼくが森井典男にこだわり続け、「森井典男論」を書かかねばならぬ所以である。

  森井典男はいったい何者だったのか、森井典男の文学とは何だったのか、ぼくの森井論はいつまでも混迷の中をさまようばかりで、その形姿がいっこうに明かにならない。森井の文学は俳句から小説、詩を通ってしだいに評論に収斂していくようにも見えた。しかし、彼の文学はまだ途上であって、評論が自分の定型だという認識には至らなかった。ともかく晩年は、あまりに早い晩年であったが、ほとんど評論以外は書かなかった。つまり小説を書き終った大学二年の、二十才以後彼は極めて寡黙な執筆者であった。その数少ない評論も学生時代のものはほとんど残っていない。発表場所もなかったし、書いたものも単位修得のためのレポートとして提出したものがほんんどで、遺稿集にも収録されていない。彼が残した評論を遺稿集から執筆時期、出典が確定できるものを取り出してみと、次のようなものである。


昭和三三年五月「『夜の鼓』を見て」(『学映研』一三号)
昭和三四年四月「作家は行動する」(『神戸大学新聞』四八九号)
昭和三四年十月「生彩のない風景」(『抵抗』創刊号)
昭和三五年五月「民話の評価についての疑問―木下順二編『日本の民話』」(『展望』第二号)
昭和三五年五月「『保元物語』の形成と発展―「語りもの」の形成に関する一試論」(『国文論叢』第八号)
昭和三六年二月「歌舞伎に魅力を」(『神戸労演』六六号)
昭和三六年二月「あなたはどう生きるのッ!」(大阪市立図書館青年部報第三号)
昭和三七年二月「菊地寛の出生について」(大阪市立図書館青年部報第七号)

そのほか彼が所属していた「日本文学協会(略称・日文協)」の神戸支部の書記局員として書いたいくつかの報告だけである。この中で『日本の民話』を除いてはすべて十枚以下の短編評論に過ぎない。

  森井の執筆の時代が終わり、実践の時代が始まったとも言える。文学のほかのもう一つの世界である。それを山本宏美作製の年譜から抜粋してみると、次のような活動家としての相貌が浮かびあっがてくる。


昭和二八年四月(高校二年)社会科学研究会にはいる。毛沢東、魯迅等を読む。
昭和三〇年四月(大学一年)文学研究会、民主主義文化研究会にはいる。
昭和三一年十月(大学二年)文学部自治委員になる。(委員長を勤める)
日本文学協会神戸支部に入会。
昭和三五年四月(大学助手)神戸労演委員となり、機関紙編集を担当する。
昭和三六年七月(図書館司書)大阪市職教育支部図書館代議員に選出さる。

  森井は大学専門課程進級以後は実践に忙しかったともいえる。しかしそのような学生運動、組合活動はどのようなものであったのかを論じる資料は私にはない。私の森井論はただただ森井文学論に尽きる。私は文学部自治委員長として森井がなにをしたのかはほとんど知らない。助手時代安保反対闘争にどのように取り組んだのか知らない。新設図書館吏員として組合創立にどう参加したのか知らない。しかしそれらの実践活動は文学とそんなに截然と分けられるものではないであろう。それに注いだ森井の情熱は文学に駆り立てたのと別のものではない。それは高校時代に毛沢東と魯迅を同時に読み、大学で文学研究会と民主主義文化研究会に同時に入ったという形ですでに現れていた。森井にとって文学と政治はそのような両輪の形で存在した。森井において政治と文学は長く幸福な両立の時代を経過した後、その比重がしだいに政治に傾斜して行った。

  それでは最初の評論を読んで、森井の文学論の輪郭を明らかにしよう。学生時代の唯一の作品「『夜の鼓』を見て」はごく短い評論で、近松門左衛門の「堀川波鼓」を下敷きにした、橋本忍のシナリオ、今井正監督の『夜の鼓』を論じたものであるが、その導入部で、同じ作品を戯曲化した田中澄江の『鼓の女』について、

近松の原作に現代的モチーフを吹き込んで田中澄江は野心的な脚色を試みているが、葛藤のすべてがヒロインの肩にかぶさってしまって、お種というヒロインの行動は歴史的現実から浮いてしまう。

と田中澄江の『鼓の女』が<近松のドラマにイプセンのノラを乗せようとした>その<歴史離れ>を批判した。森井がここで出している古典の現代化の条件は<歴史的現実>を踏みはずしてはならないということである。<近松>と<イプセン>の踏まえていた<歴史的現実>が全く異なるゆえに<お種>はそのまま<ノラ>にはなりえないのである。今井正の<妻に姦通され乍も愛情を捨てることが出来ないのに、周囲の義理で愛する妻を殺さねばならぬような状況に置かれた夫の心理を描いてみたい>という今井の<愛情>と<義理>のドラマを近松の<義理と人情>という方法の継承と見ている。

夫が妻を制裁する側に身を寄せるのではなく、姦通を犯した妻の側に身を寄せるなら、夫の立場は当然義理の世界=封建社会に対立するものとならざるを得ない。そしてそのような時点での生のありかを探ってゆこうとする所に、社会批判への広がりを持った葛藤の可能性が拓けてくる。

  まず<制裁する側>=体制に身を寄せるのではなく、<姦通を犯した妻>=制裁される側=弱者に身を寄せるというヒューマニズムという思想的立場だけでは作品世界は成立せず、古典の現代化には<義理の世界>=<封建世界>という「歴史的現実」に立脚する葛藤を作り出すという迂回路をくぐることによってしか現代の<社会批判>への展望が開けないのである。田中にはそのような創作に必須の回路が欠落していたのである。森井が今井に期待したのはそこであった。しかし、『夜の鼓』の葛藤はそんなふうには設定されなかった。

『夜の鼓』における葛藤の構造は基本的に心理ドラマである。そして回想形式をとり入れる必然性はここから出てくる。(中略)義理と人情との葛藤という、近松のドラマの太い骨格はどこかへ吹っ飛んで、カメラはコキュー(妻を寝とられた)彦九郎の生態を執拗に追ってゆく。全く自然主義的私小説を思わせる描写だ。(中略)全く自然主義クソリアリズムだ。お世辞にも記録的とはいえない。。

  今井の映画は近松の<義理と人情の葛藤>という「歴史的現実」が置き忘れられて、<心理ドラマ>一般に解消されてしまった。田中がヒューマニズムに解消したように、今井は心理に解消したのである。しかも今井は方法として<自然主義的私小説><自然主義的クソリアリズム>であると否定されている。どうして<自然主義><私小説>が否定されなければならないのか。「自然主義」とは日本近代小説が西欧近代小説を手本にしつつ曲りなりにも確立した小説の方法である。しかしもともと方法意識が欠落していたため、次第に「私小説」という情緒的告白小説に変貌していった。近代小説の基本的方法である<リアリズム>が事実はそのままでは小説にはなり得ず、<フィクション>を通してしか小説世界を構成することができないことを理解せず、現実を素手で捉えるがごとき無法の振舞いにいたるとき、そこに<クソリアリズム>という現象が生じる。フィクションが単なる技法でなく、小説が成立するための不可欠な回路であることを忘れ、事実告白の私小説に変貌していくのである。<私小説>も<クソリアリズム>も現実というものが実在し、それをなずらえることかできるという錯誤の生み出したものである。森井はここで<自然主義的私小説>という「方法の欠如」を打倒すべき当面の目標と措定した。それを克服する方法として<記録>が取り出される。この<記録>とは、当時花田清輝らアヴァンギャルド理論家たちが用いた創造理論であり、事実を<フィクション>とは別の回路で捉えようという方法であり、まず<事実>は<もの>と<意味>との矛盾・統一物であると捉え、その<事実>を<もの>と<意味>とに分析・解体することで、今まで<事実>の隠された側面を顕在化させ、<事実>の変革へ迫ろうという試みである。それは優れて方法的な文学論であり、この頃森井がどんなに方法にこだわっていたかを示していた。

  昭和三四年、彼は大学卒業後、助手として大学に残る。それは日文協書記局員として日文協活動を支えていく中心的役割を担っていくということであった。それは代々の国文科助手の仕事であったから。その四月彼は大学新聞に江藤淳の『作家は行動する』についての書評を書く。ここで江藤が提示しているのは、現実を外在的・静的なものと考える自然主義的・反映論的リアリズム論からいまだに飛躍できずにいるわが国の文学者たちの怠慢さに対する告発である。と同時に、

それは、文学独自の役割をはっきり把握できず、常に批評基準が外在的な要素によって混乱させられて、無責任な技術が氾濫している無気力な批評界への、新しい価値観の明確な提示でもある。

  その頃、江藤は大江健三郎とともに新しい文学の旗手として颯爽と登場し、すでに『奴隷の思想を排す』を刊行し、話題をにぎわしていた。江藤の『作家は行動する』は文体論を中心に据えた文学論であり、森井はここでもまた<自然主義的・反映論的リアリズム論>を克服すべき当面の課題として提示してみせた。ここでは批評の基準として<自然主義>は<反映論>と同質のものとして併置されている。小説の方法である<自然主義>が<反映論>という古典的マルクシズム文学論と併置されて否定されている。この頃の森井は<自然主義>アレルギーとでもいうほかない<自然主義>原罪論に立っていた。映画論の<記録>に続いて今度は<文体>が出てきた。それは彼が後に日文協神戸支部で組織したハーバード・リード著の『散文論』を原書で読む「文体論輪読会」へと発展していくのである。森井はこの頃、小林秀雄をよく読んでいる。例えば田村欽一への文体論についての参考文献を挙げる手紙の中で、小林のものは『アシルと亀の子』『文学は絵空ごとか』『文化と文学』『文体について』の四編を上げている。その手紙には文体についての次のようなコメントが添えられている

文体論というのは、存在(無意味で実体的なもの)と意味をつなぐ―もしくは両者の葛藤のありようを明かにするためのものだと考えています。だとすれば、存在論と意味論の両領域から犯してゆかねばならんようです。

  こうしてみると「文体論」は「記録論」にきわめて近いことが分かる。研究者集団「日文協」全体のテーマとしては「国民文学論」以後「形象論」「文体論」へと展開をするが、森井はそういう「日文協」の枠組に沿いながらも江藤・小林という「日文協」では必ずしも高い評価を与えられない評論家と取組み、独自の文学理論の構築を模索し始めていた。

  森井が書いたまとまった評論は昭和三十五年五月、『展望』に書いた『日本の民話』(木下順二編)についての書評だけである。十八才の離郷以後、故郷の心音を聞き続けた森井には民話はその心音の伝声管にほかならなかった。民話は農民あるいは民衆の自己表現であり、いわば森井の文学のふるさとのごときものであった。すでに指摘したように、彼の俳句にも、処女作『福さん』にも民話の影は色濃く落ちていた。彼は早くから民話に一方ならぬ関心を払ってきた。彼は『日本の民話』を知識人と無縁なところで民衆が生み出した民話に知識人がいかにかかわりあうべきかという知識人論として読んでいる。それは「民話の会」の中枢的会員七人によって執筆されていおり、編者木下順二は「民話の会」の中心メンバーであり、戦時中から民話に着目し、『夕鶴』を始めとする民話劇の作者であった。その冒頭の「なぜ民話を問題にするか」のなかで木下は「後かくしの雪」を引用しながら

切実で、こすっからくもあるが、一面ずぶといユーモアをかかえこんでいるような生活感覚が、雪を「あとかくし」と実感するのであろう。そこに日本の農民のいきずかいを筆者は感じとるのである。そして、つまり、そこに筆者はひかれるのである。

と書き、民話の現代への生かし方として民話の再話を主張するのだが、その民話への取組みはかつての「民話劇」という創作の視点から、その「再話」へと移行している。それでは木下順二にとって民話の意味はどのように変貌したのか、その軌跡をたどってみたい。

  木下が民話に着目したのは戦中である。彼は民話などに誰ひとり顧みるものもない時代の片隅で民話との対話を開始し、そのような孤独の中で民話劇は誕生した。その集成である「『民話劇集』あとがき」(昭和26年)に次のように総括した。

ヨーロッパにはギリシャの神話伝説を素材にした戯曲が大へん多い。(中略)ギリシャ神話の知識は、山へ柴刈りに行ったおじいさんは川へ洗濯に行って桃を拾ったおばあさんの夫であるというわれわれの知識と同じ位に、いやそれを知識と呼ぶのが却って滑稽であるほどにも、ヨーロッパ人の血となり肉となっているわけだろう。

  そのように民衆の血となり肉となっている知恵、「歴史的に」蓄積された知恵を仮に「テーマ」と呼ぶなら、ヨーロッパの戯曲はみんなそういう「テーマ」の上に書かれている。したがって芝居の最初の幕が開いたとき、観客は既にその芝居がわかっている。観客はある安心感をもってその芝居に自然に溶け込み、心ゆくまでそれを味わい楽しむことができる。

  例えばヨーロッパのギリシャ神話に対する日本のテーマとしては、民衆の中への浸透度からいって日本神話よりむしろ民話が考えらえるべきだとぼくは思うが、エディプス王の物語り一つを眺めてみても、その中に含まれている問題がいかに複雑であり巨大であり強烈であることか。そしてそれに対して日本の昔話がいかに素朴であり矮小であり温和であることか。

  日本の民話の貧しさに打ちのめされた木下にはしかしテーマとしては民話しか残っていない。その貧困なテーマの上にどのように自分の演劇を打ち立てるかを模索していた。つまり木下は民話という負の遺産をいかに受け継ぎ、いかに国民的なテーマをもつ演劇を創造するか腐心していたのである。これがかつての民話劇に取り組んだ当時の木下の態度であった。日本のテーマの上に新しい演劇を作り出そうかとひとりでどんなに悪戦苦闘していたかをそれは語っている。しかしこの『日本の民話』はそのような創造的視点を失っている。その後の民話ブームとその中で出来た「民話の会」の中で彼がいかに民話への批判の矛先を鈍らせ、創造へのボルテージ低下させていたかを物語っている。森井はそういう木下に対して

木下氏の民話への対し方は、そのまま本書の執筆者たちを代表しているし、あえて極論すれば、ここ数年来の民話ブームを代表している。つまり農村の貧しさの結果として生れた民話を肯定する立場である。この立場に立っての民話の取り上げ方に、私はアクチュアルな問題提起を感じられない。

と厳しく批判する。それが民衆のものだというだけで、負を正に転倒することは許されない。森井の民話観は<農村の貧しさの結果として生れた民話>ということに尽きるのだが、いつまでも<癒されることのない傷>をなめつづけている農民の姿を、民話は裏側から表現しているのだ。だから農民のみじめな姿はいつまでも民話の裏側にかくされている。繰り返して言えば、森井にとって民話はあくまでも否定しなけばならない負の遺産であり、そこに<癒されることのない傷><みじめな姿>を見続けていた。だからそのような農民の実像を見落とした「民話の会」の明るい民話観は森井には<大衆信仰>と映った。森井はこの『日本の民話』の<大衆信仰>は<大衆の実体不在>から起こると断じた。この最も著しい例として松本新八郎の「民話の歴史」を上げた。

松本氏は民話を高く評価しようとするあまり、知識人の果たした大きな役割を見落としており、この点では民俗学的見解と同断である。(中略)民俗学的研究は、その非歴史性にもかかわらず、発展しない側面において民話の独自性をとらえてきた。

  結局松本の論は民俗学を批判しながら、民俗学の達成に及ばなかったのである。

  吉沢和夫・難波喜造の「民話の世界」は民話の特徴を<複数性・無名性・無責任性>と的確に指摘しながら、<民話のウィーク・ポイントとしての無責任性>がまったく追求されない。「困ってもくよくよしない世界」としての笑話の場合においても、強者を矮小化したり弱者を笑いとばしたりする「精神的勝利法」の側面は全然触れず、<日常的な願望 現実的な手続きによって目的を成就する>側面だけがとりあげられている。

つまり民話の世界に身を寄せるのと引きかえに、現にこの喧騒な近代社会に生きているおのれの知識人としての立場は放棄されており、民話の世界を客体化すべくもない。このような態度からは、知識人であることの苦痛に堪えつつ「阿Q」を形象していく強靭な精神が生れる可能性はない。

  森井はこれらの執筆者たちの<大衆信仰>に対して自分の立脚点として<魯迅>を提出する。それは森井自身の文脈をたどれば納得のいく道筋なのだが、この民話論の中の魯迅の出現と理想像としての「阿Q」の提示はあまりに唐突で、このあたりの森井の論の組み立ては説得的ではない。この書は最後の富田博之の「民話と現在」が木下順二の「夕鶴」を賞賛しつつ太宰治の「お伽草子」と深沢七郎の「楢山節考」を「民話と断絶したところで民話を借りて」きたり、「民話の語らんとする主張」が「一方的に口を閉ざされてしまっている」として両者を批判する。これに対して

私なりの表現をすれば、大衆の方法としての民話を、知識人としての作家が拒否しようとするところから、両者の葛藤関係が成立している点に、深沢七郎の作品の方法的な豊かさをみる。今まで深沢七郎ほどに、民話が表現しようとして表現できなかったものを、形象を通じて実体化した作家があったろうか。深沢七郎の方法は、日本の作家が「阿Q」を客体化し得る可能性をまざまざと示してくれた。完結体としての作品としてみれば難点が多いにせよ、民話の語り口を巧みに使って『東北の神武たち』においては、既に「阿Q」像が形象されかかっている。

と具体的な作品を挙げて批判する。このとき森井は民衆に対して知識人としての己れを対置するという自己の位置を確立し得たのである。「阿Q」を造形した魯迅という理想像に照らして『楢山節考』の深沢七郎という作家を見出したのである。しかし、どうして深沢は魯迅であろうか。『東北の神武たち』はどういう点で『阿Q正伝』であるのか。『東北の神武たち』は日本の民衆の実像を描いて見せたが、それは決して典型ではなかった。深沢は日本近代文学の伝統に無縁なところから出てきた作家であり、ほとんど知識人とは無縁な、むしろ民衆のただ中から現われたように見えた。だから彼は民話の世界に何の抵抗感もなくストレートに入って行けた。その語りは民話にきわめて近かった。いわばそれは<複数性・無名性・無責任性>の民話的語りであって、近代小説の方法ではない。『東北の神武たち』に描かれているのは、東北のある村では家族の人数を制限するため、結婚は許されない、<ヤッコ>あるいは<ずんむ>と呼ばれて性的に差別的待遇を受けていた農家の二・三男たちの世界である。ある男が昔自分の家で恨みを残して死んだヤッコの怨霊に崇られての死に際に、その霊を鎮めるため妻に自分の死後ヤッコ達を一晩ずつ花婿に迎えてやれという遺言を残した。その後家から一晩の花婿のもてなしを受けるヤッコの中で<くされ>と呼ばれる口臭の強い男が一人もてなしから外されるのだが、この二重に性から疎外された<利助>と呼ばれた男がはたして阿Qであろうか。<利助>は口臭ゆえに受ける差別の屈辱に狂乱して、「花婿になんか行きたかあねぞ」と強がりを口走ったり、自分の畑の稲を引きちぎったり、弱者である自分の家の馬に当たり散らしたりと確かに「阿Q」的な振舞いはするが、彼の対応は阿Qに比べてはるかに素朴で真摯でさえある。彼は真摯であるがゆえに錯乱状態に陥るのであり、だからこそ救いが現われるのである。兄は家を守る打算から自分の嫁に一夜の花婿のもてなしをさすことを約束し、六十五才の<おかね婆さん>が、共同体に根ざす古い約束に従って花嫁役を買ってでるのである。それは『阿Q正伝』の「精神的勝利法」という自分に加えられた屈辱をすべて「せがれに殴られたようなものだ」とどこまでも無傷のままですり抜けていく精神の構造とは全く異質の物語である。ともに民衆を一種民話的手法で描きながら魯迅は自国民衆の精神の底知れぬ退廃の構造をえぐりだし、深沢は農民の実像に即して、淡々と人間の裸形を語ってみせる。ほとんど民話を生きることができた点で彼は近代人ではない。民族という通路を通して現代を見すえていた魯迅とはほとんど対極にいた。魯迅は民族の責任に裏打ちされて民衆の負の典型を描いたが、深沢は最初から正負という価値概念から切れていた。深沢はすべてを突き放すニヒリズムの中にいた。森井はやや性急に深沢の粉飾を剥ぎ取って現われてくる人間の裸形を負の典型と見誤ったのであろうか。この結び付きようもないものを強引に結びつけたとき、森井のなかである変化が起きたことを見逃してはならない。そのとき森井は知識人の概念を魯迅的なものから深沢七郎的なものへ押し広げたのである。しかし、深沢ははたして知識人であろうか。彼こそ知識人という概念からもっとも遠い人間であった。あるいは知識人の虚妄を生きる逆説的な知識人であった。知識人の枠を深沢まで広げたとき、知識人の概念に亀裂が走り、その枠組みは壊れざるを得なかった。知識人深沢というのはもうことば自体自己撞着なのだが、しかしそれは同時に自己の虚像に気づいた新しい知識人像の予見をも含んでいた。そこのところを森井も明瞭には示していない。ただ、太宰治の「大人」を付け加えることによって、その知識人像の輪郭と奥行きは暗示されていた。太宰は戦中の知識人総崩れの時代にただ一人「民話」のパロディ化という完全に「民話と断絶」することで人間の宿命を語りえた稀有の知識人であった。そこではいかに状況が変転しようとも、もはや民衆に帰ることのできない知識人の宿命が見据えられていた。

現代において「民話と断絶しないところ」でいったいどのような創造が可能であろうか。太宰治ですらまさに民話と「断絶したところ」にいたからこそ『カチカチ山』の中で、憎まれ者の狸におのれを擬することによって、兎の執拗な復讐に、儒教的な武士道のモラルとは異質な、土着の大衆独自の自己表現を発見することができたのだ。(中略)太宰治は、近代社会において所詮大人でしかあり得ない知識人としてのおのれの宿命を感じとっていたのだ。それに比べて本書の執筆者たちは、大人であることを止めて、いとも無抵抗にメルヘンの世界に自己を投入している。

  こうして本書の著者たちは粉砕される。彼らは太宰の『お伽草子』が読めなかったのだからいたしかたがなかった。しかし森井は『日本の民話』を全面否定したわけではない。「民話の研究史」を担当した益田勝美は執筆者グル ープの中で一人だけ民話の全体像が見えていた。彼は他の執筆者たちと違って柳田国男の民俗学を高く評価した。<この学問を民衆に向けているのは重出抽出法という方法である>と構造的に柳田を捉らえている点で<重要な示唆を多く含み><是非一読すべき>と評価した。それに比べて他の執筆者たちを民衆に向けていたのは<国民文学論>という<大衆信仰>にすぎなかったとして次のようなコメントを付け加えた。

かつての国民文学論が知識人のおのれの立場をはっきり確認することを怠って、大衆の立場へ自己を解消したところで空転していたのであり、民話に関するかぎり、いまだにその空転がつづいている。

  こうして森井は長く彼を捉えてきた国民文学論の呪縛を振りほどくのである。そして高らかに自己確立の宣言をする。<私は、今、大衆を一方の極において、知識人の立場を確認する必要を痛感している。>この知識人像は今までの知識人論の枠組み―知識人の超越性を前提とする知識人と大衆の二項対立の構図―は深沢を含み込むことで地殻変動の兆しを孕んでいた。そして長らく彼を苦しめてきた民衆コンプレックスを<大衆信仰>ということばに対象化して乗り越え得る契機をつかんだかに見えた。森井のこの知識人像の転倒は『保元物語』の研究において劇的な展開を見せる。

  森井には一つだけ研究論文が残っている。今でも「有精堂」から出版されている『日本文学研究資料叢書―戦記文学』に収められている「『保元物語』の形成と発展―「語りもの」の形成に関する一試論」である。大学進学以来の宿願の叙事詩論の大成である。今読み返しても全く古びていない、彼の文学的情熱と才能が脈々と伝わる生涯最大の大作であり、彼の研究者としての才能を遺憾なく示した労作である。『保元物語』の四つの異本―「半井本」・「金刀比羅本」・「京都大学図書館本」・「流布本」の厳密な書誌学的検討を加えながら、一つの叙事詩の誕生とその生涯を明かにしていくのである。その諸本の比較検討によって高橋貞一氏の学説の「金刀比羅本」→「半井本」→「京都大学図書館本」→「流布本」という成立順序を「半井本」→「京都大学図書館本」→「金刀比羅本」→「流布本」とひっくり返すのである。<統一的構成意識の欠如に起因する「半井本」の分散性・重複性>を「金刀比羅本」の担い手たちが、明確な構成意識によって形象を整理集中し、そのために史実との相違が生じたりすのだが、<史実を越えて、単なる記録を文学的リアリティに転化させている>、つまり<記録的アクチュアリティが、形象を媒介として文学的リアリティに再構成されていく過程>を、ほとんど完璧に実証して行く。かくて森井は「半井本」→「京都大学図書館本」→「金刀比羅本」という発展の仕方には<人間に対するインタレストが中心になっており、「語り」を媒介として発展したことが明らかであり、とうていパーソナルな担い手による発展とは考えられない>と断じる。「流布本」の作者は「語り」の担い手から逸脱し、

「流布本」の作者は作品と内部的なつながりを欠いた場所で、故事的、史伝的インタレストによって増補を行っている・・・諸本に存するエピソードを惜しげもなく切り捨てていることは、人間にたいするインタレストの希薄さを表しており、

「流布本」は<文学的な達成において一番貧しい>と切り捨てられる。かくて「金刀比羅本」が最高の文学的達成として評価される。こうして学術論文としての一応の結論に到達するのだが、森井はそれに満足しなかった。森井は学術論文の枠組からはみ出して「半井本」の独自性を追及していく。森井は「半井本」に強い愛着を抱いていた。「半井本」の文章は

極めて素朴であり、文章をつなぐ接続詞をほとんど使わず、短文を重ねて事件を無表情に記録していく。接続詞が使われないため、おのおのの短文は、その相互間の意味づけをされないまま、独立的に並列される。このことは、半井本の作者が、目まぐるしく生起流動する圧倒的な素材的現実を、もはやパーソナルな主体でもっては統一的把握をなしえず、批評者たることを断念して自らを記録者としてしか存在させえなかった事情を物語っている。

  文体の分析を通して創作主体の性格を<批評者>というパーソナル主体ではなく<記録者>というインパーソナルな主体であると浮き上がらせていく。このパーソナル・インパーソナル論は森井がこの頃好んで用いた用語でたぶん花田清輝から借りている。こうして激動の時代を生き抜いていく知識人の変貌の中に知識人の使命を浮き彫りにする。民話論の進んだ知識人から遅れた知識人へと森井の知識人は反転する。『保元物語―半井本』は<大衆の方法>である<説話>と<知識人の方法>である<記>との<全く対立する異質物>を<文学の方法>として実現し得た、<最初の作品>である。先に映画論で紹介した「記録」がこうして知識人の方法として叙事詩論の中で確かめられる。この論文は森井の文学論の集大成の観がある。さらに森井は知識人像を次のように解説して見せる。それは研究論文の枠組を超えて自己の主体確立を目指す熱気をはらんでいた。

往時の知識人の世界観に収まりきれぬ保元の乱を体験して、批評者たる地位から転落した知識人が、知識人の方法=「記」と、大衆の方法=「説話」を手がかりとして、保元の乱を右往左往しながら記録し、おのれの現実像を構成しようとしている姿に、私は共感する

  こうして中世叙事詩の中に彼は自己を発見する。この遅れた知識人が進んだ大衆の方法に学びながら時代の証人となる『半井本』の作者の姿こそ自己のあり得べき姿だったのだ。<批評者>という超越者から転落した遅れた<知識人>像が長く捉えられていた民衆への後ろめたさから彼を開放する。この転倒は革命的であった。彼がその中で戦った六〇年安保は指導部が大衆に乗り越えられた政治運動だと言われた。それ以後前衛はその指導的地位を回復することがない。彼の論は安保闘争直後の一九六一年五月に発表されている。知識人がその前衛としての栄光を失った時代状況に対応するもっとも早い知識人像である。この論はそのような状況でなおかつ民衆=大衆=農民に対して後衛に取り残された知識人の使命を見いださんとする真摯な営為によって貫かれていた。「文学の未来は叙事詩にあり、叙事詩は前衛ではなく、後衛である」というのが彼が最後に到達した文学論の結論だが、それを中世叙事詩の中に実証してみせた。森井が追い求めてきた知識人像は魯迅から深沢へ、深沢から『保元物語』の作者へと反転に反転を重ねて重層化するのだが、その足跡は魯迅(外国文学)→深沢(民話)→保元物語(古典文学)というようにやや特異な軌跡を描いて、時代の民衆像を作り出す文学的主体に収斂していくように見えた。表面的には彼が政治的実践的傾向を強めていくかに見えたとき、その内実は強固な文学的拠点の構築へ向かっていた。それはひたすら自ら希求した知識人像の破壊を目指しての、新しい時代のスパンの中にそれを再建しようとする荒行のごとくにも見えた。

  その緻密な書誌学的な裏付けとその上に構築された斬新な叙事詩論、それは間違いなく彼の学者への道を保証していた。これは彼の全作品の中でも、もっとも安定した姿を示していた。学術論文の枠を食い破る文学性を内包しつつも彼は学者になるのが一番ふさわしく、幸福だったのかも知れないと思わせる業績である。彼の卒論の指導教官・永積安明は追悼記「森井典男君」で

森井君を何とかして大学院にやりたかった。これは島田さんとも話あったことだが、彼は、学問的な仕事でユニークな研究をするであろうことを、私たちは予感していたのである。

と書いている。しかし彼の学者への道は経済的理由で阻まれる。大学院への進学を彼は断念する。彼は大学教官(助手)を二年勤めた後図書館司書となる。これが二交替制の激務であった。新設図書館の仕事と新しい組合作りと家庭教師のアルバイトと生活は多忙を極めた。自分の時間が激減した。学生時代、助手時代時間はたっぷりとあった。実践活動に時間を裂いてもまだ文学の時間が残った。しかしこの図書館勤務の中では激務を縫って文学の時間を見出そうとしたが、ままならなかった。仕事と文学の両立は不可能に見えた。疲労は確実に蓄積していき、図書館勤務二年目にして極点に達した。そのとき、母校兵庫県立八鹿高校から国語科教諭として招聘される。文学の時間を取り返す機会の到来だ。しかしそのような一身上の都合のためにともに組合作りを共に生きてきた仲間を見捨てていいのかという倫理観が頭をもたげる。彼は悩みに悩んだ末やはり帰郷の決断をする。彼は本来優しい人情家で、極めて「パーソナル」な人間であった。あの「インパーソナル」を主軸に据えた組織論はそのような自己を超克しようとする願望の表現だった。ヒューマニズムを否定し、「すでに魂は関係それ自身であり、肉体は物それ自身になり、心臓は犬にくれてやった私ではないか」と『復興期の精神』に書いた花田清輝のインパーソナル論は彼を鼓舞する力を失っていた。彼の古風な人情的倫理観は内向して被害者意識を形づくる。被害妄想的強迫感はいささかノイローゼ的症状をさえ呈する。彼を最後まで支え続けた師・島田勇雄の「最後のふた月の森井君」によると

四月二十七日 夜遅く来る。すっかり明るさをとりもどした表情。前日の免職のことはまったく考えすごしで、むしろやめられなくなりそうで困ったなどと談笑する。組合関係については能力不相応に仕事をせざるをえず、自己嫌悪におちいるなどとも話す。元気づけて帰す。

  この<免職>という言葉に彼の被害者意識の深刻さが露呈されている。また組合活動に対するこのような自己嫌悪も彼が初めて見せる組織への後退りの感情である。ぼくの古い「追悼記」を繙いてみると、彼は「おれは八鹿へいっても、しばらくはどんな組織のもはいらないよ」と言っている。この言葉は彼がどんなに組織に傷ついたかを物語っている。このころぼくは彼のただならぬ疲労は感じてはいたが、彼の見舞われていた精神の土台を揺るがすような劇には鈍感であった。だから彼がぼくに告げた最後のセリフ、中原中也の「畢竟意志の問題だ」という詩の一節も彼の再出発の決意として聞きながしてしまい、関係の総和であることから免れない人間の宿命の枠を一刀両断して超越する意志をはらんでいたとは思いも及ばなかった。

  彼の死に先立つ四か月前の昭和三七年二月「大阪市立図書館青年部報」に書いた最後の評論『菊池寛の出生について―ふたつの作品(その一)』に触れておきたい。

ここにふたつの作品がある。菊池寛の「出世」と中野重治の「司書の死」―ふたつながら小さな作品だが、文学作品の中では珍しく図書館を素材にしている。

と書き出されている。図書館の暗い地下室で下足番をしている二人の老人がいた。失業中によく図書館を訪れた主人公<譲吉>には、この嫌人的で無口で、入場者を一人おきに引き受けるという原則に固執し、己の領分以外には一切動こうとしないこの二人の老人が印象に残った。作者菊池は図書館という活動的な現実生活から取り残された、くすんだ風景の中で、風景になりきることを拒んでいる不快な自然と対話しはじめるかに見えた。ところが譲吉が職を得て、久しぶりに図書館を訪れてみると、閲覧券売場で意外にも、微笑すらしながら声をかけてくる老人を発見して<死ぬまで下足をいじって居らねばならないと思っていたあの男が、立派に出世している>ことを知り、はればれとした気持で入館していく。このように図書館から不快な自然が消えて、風景が風景として完結していることに満足して立ち去る譲吉の後ろ姿を見送ることで『出世』は幕を閉じている。

  下足番の不幸に、労働によって自己を対象化できずにいる者の不幸を凝視しているかにみえた作者菊池は、実は不幸のありようを出世への道が閉ざされているという側面でしか見ていなかったのだ。(中略)菊池は不幸の本質と対話していない。不快な自然と対話しはじめたたかに見えた菊池は、やはり、風景としか対話していなかったのだ。菊池は、ここにおいて、不幸を引き受けてそれを克服するてだてを発見してゆく作家の使命を「出世」という方便で解消してしまっている。
  それにしても、人は、決して「出世」などということのためにだけ生きはしない。その窓は、人々と喜びをわかちあうには、あまりに狭すぎる。菊池は常識の眼からはほとんど無意味に思われることにさえも、おのれを賭け得るほどに持続的な生を保っている、人間の本質への洞察力が乏しい。このことは作家が豊かであるために致命的な欠陥だ。

  当然のことながら、この死の四か月前の評論には少しの乱れもない。彼は最後まで少しも乱れてなどいなかった。その作家の宿命と人間の本質の洞察に少しの曇りもなかった。その死もあの計量された真空管の回路のように少しの狂いもなく、完璧に死んだ。彼は生前一度も自殺について語らなかったが、あの死を誰も事故死とはみなさなかった。その死について、師・猪野謙二は「森井典男追悼」の中で、次のように書いた。あの時、ぼくたちの心に刻まれた森井の鮮烈な死の形を昨日のことのように思い出させる文章である。

彼はその死の条件としても、もっともインパーソナルなかたちと状況とを自ら選んだ。おびただしい騒音と塵埃と都会の人いきれのまっただ中に彼は自分を引き裂いた。それは決して、故山の松籟をきくところでもなく、孤独な書斎や寝室の中でもなかった。そしてそこに、私は彼の強い意志と思想の純粋さとを見ずにはいられない。

  森井の最後の評論は次のように終る。

中野重治は「司書の死」で、菊池寛と対象的に、激動する自然のさなかに図書館を置いて、静かに愛を語りはじめるのだが、残念ながら改めて次号で、彼の愛を告げねばならぬ仕儀と相成った。多謝。

  しかし非政治的な司書が時代の政治の渦中で死んでいく中野の『司書の死』についての評論は書かれることなく、彼自身が<司書の死>を死ぬことになった。あの自分の死を予告するかのごとき最後の詩「ゼロの日」と重ねあわせてみると、この書かれなかった評論の書かれなかったことの理由もまた暗く重い。彼の死は綿密に計画されたように決然と、正確に、一度で完遂された。何の試技もなしに、助走すらなしに森井は死のハードルを易々として越える。一九六二年六月一五日、阪神電鉄野田駅で通過する特急電車に激突して彼は死んだ。二六歳の彼のポケットには「ゼロの日」が書かれた手帳とその日支給されたボーナスが入っていた。

  森井は一度故郷へ帰ろうとして、どうして最後に帰郷を拒んだのか。但馬の旧家の長男に生まれ、故郷の期待を一身に集めた秀才が、故郷の期待を裏切って故郷を捨てる経緯については既に述べたが、故郷との和解を目指しての知識人としての自己確立を成就し得たかに見えたつかの間の平安の後、この帰郷の企てを契機に再び棄郷者の後ろめたさが頭をもたげる。知識人としての故郷=民衆との関係の組み替え=和解は現実の故郷に直面して崩壊する。再びぼくの「追悼記」を繙いてみると、この最後の日に「おれは弱い人間だから、文学なしでは生きていけないのだ」とめずらしく弱音を吐いている。かつて文学のために故郷を捨てたのに、今その文学のために帰郷は企てられている。この転倒は取り返しのつかない錯誤をはらんでいた。帰郷は文学のための緊急避難所であって、彼はもう一度神戸に帰ってくるつもりであった。故郷をそのような方便に使っていいのか。そのような方便に使うには彼のなかで故郷はあまりに重い意味を持っていた。彼の文学はひたすら故郷の心音に聞き入ることをモチーフに成立したのではなかったのか。この度の帰郷は彼の文学の根幹に照らして許されるはずはなかった。しかし彼はすでに故郷への切符を手にしていた。図書館は彼の辞職を了承し、母校にはすでに彼の机が用意されていた。彼は故郷への列車を待つためにプラットホームに上がっていた。そのとき彼は故郷へ帰れない自分の宿命を痛切に了解したのだった。すでにこの世に自分の場所を見失った森井は存在の彼方へ疾走するほかなかった。彼はあたかも風車に立ち向かうドン・キホーテのように(あのとき、愚鈍に見えるほどにもドン・キホーテの知性は比類ない明晰さに輝いていた)、電車に向かって突進する。都会のプラットホームを蹴って、故郷へではなく、虚空へ自分を投げかける。

  ぼくの森井論は初めから彼が残した作品だけを手掛りにした文学論に限定されていて、彼の苦悩の森に分け入ると、たぶん迷路のように訳の分からなくなるに違いない人間論は回避されていた。しかし、人生論抜きの文学論などほんとうにあり得るものなのか。森井の人生は<常識の眼からはほとんど無意味に思われる>どんな謎に<おのれを賭け>たのであったのか。ぼくはようやくにして森井の人生論の入り口にたどり着いたらしい。やはり森井はぼくに謎として残る他ないようだ。彼の死後多くの人が彼の死を悼んだ文章を書いた。その中からひとつ『森井典男遺稿集』編集後記の尾末奎司のものを引用してぼくの森井論を閉じることにする。それは芒々三十年の彼方から森井の死に打たれていたあの時代の刻印を浮び上がらせる。

  森井典男は一九六二年六月一五日に死んだ。
  その二年前の同じ日には樺美智子の死があった。樺美智子の死に場所は安保反対のデモの先端が、警官隊とぶつかったあの国会の庭であり、森井のそれは、おびただしいつとめ人たちを乗せて疾駆する特急電車のその車輪の下であった。互いに無縁であるかのようにかけ離れて在ったこの二つの位相の異なる青春の死。―外部からの死と内部からの死、前からの死と背後からの―というような単純な対比をこえて、歴史と実存とのそむきあうこの現実のどこかで、はげしく切り結んでいる二つの死。

初出序 T U『貫生』第11号1985年5月
 V『貫生』第15号1988年3月
 W『貫生』第16号1990年8月
 X『貫生』第17号1992年10月
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